雑禄20211219 修正批判学の試み

 科学的自然観とはどういうものであるか、長らく私は関心を持ち続けていた。今もまだ持ち続けており、その本質は掴み切れていない。カッシーラーの如く「実体概念から関数概念へ」という標語も科学的自然観のある側面をよく表現しているし、逆にレーニンマルクスといった共産主義陣営の打ち立てた「弁証法唯物論」なる考え方も、それの科学史への表面的な適用においてではなくより本質的な観点から考察すれば、ある種の妥当性を有していると思われる。私は19世紀から20世紀にかけての科学の大発展の時代において、こういった議論を展開していった人たちの見解を大いに尊重する。科学的真理の有する普遍性とは、何を根拠にしてその妥当性を有しているのか。認識か、それとも存在か。飽くなき真理への探究心がこういった議論を呼び起こしたことは想像に難くないが、しかし、科学自身の発展とは裏腹に、現在ではこういった議論の方は停滞し、風化し、忘却されつつあるように思われる。

 我々は、つまるところ科学によって文明を発展させてきたが、その科学とやらが何であるのか、よく分かっていない。科学は迷信や権威とは異なり、客観的で普遍的なもので誰でも平等に享受することの出来るものだ。しかし、客観的とは何か。普遍的とは何か。何故、その経験則が客観的で普遍的であると言えるのか。それは、科学的事実の体系は全て科学的な論理の上に構築されているからだ。では、科学的真理の規範となる論理があるとして、その論理は何によって妥当性を得ているのか。ここで二つの意見に分かれる。ある者は、認識の形式である、と主張し、また他の者は、自然現象そのものに内在する諸法則である、という。前者がいわゆる観念論者で、後者がいわゆる唯物論者だ。

 この整理法は、若干、間違っているような気もしないではないが、こうしてみると、意外にもプラトンイデア論は後者の方に寄っている気がする。これはこれで興味深いが、唯物論者達はたぶんあまり納得しない気がする。しかし、いくら唯物論とはいえ、論理そのものの妥当性を観念論と共に解体することはできまい。それでは科学的唯物論自体も解体してしまう。とすれば、認識の論理は自然界の諸法則を反映したものであると認めるべきである。ただし、それらの諸法則は弁証法的に発展する、ゆえに人間の認識も発展すると考えるのが適当であろう。自然の側に、論理の根拠となる諸法則が、イデアのように、認識の発展の原理として実在し、駆動している(実在とは何かはまだ正直よくわかってないが)と考えることが、唯物論としては筋が通っているのではないか。

 私自身は、どちらかと言えば常に唯物論的な立場に近いところで、科学というものを捉えてきたが、観念論は観念論でまた説得力があって面白い。昔、数学専攻だった元学生の友人から、唯物論的自然観に対して、こういう批判があった。曰く「認識として起きる現象を全て身体の生体反応として説明できるとして、果たして、その身体で起きる生体反応、現象の集合と、認識で起きる知覚の現象の集合とが、同型写像の関係にあるといかにして唯物論は説明するのか。そもそも、認識によって得られた科学知を土台にして、認識そのものを説明しようとする試みに循環は無いか」。全く致命的な批判だと思う。後者の批判には若干の曖昧さが残るものの、前者の批判に対しては、今のところ反論の余地が見当たらない。

 では、唯物論は間違っているか。そうとも言い切れないと思う。というのも、このクオリアの問題は、唯物論にとって致命的であると同時に、返す刀で、観念論にとっても致命的であると思われるからだ。すなわち、同型写像の関係でないとして、いかにして観念論は、全ての人間が同じ認識の形式、思考の形式を普遍的に有すると言えるのか。どの人間でも起こりうる同じ形式の現象としての認識の存在を仮定せずして、いかに認識形式そのものの普遍性を根拠づけることが出来るのか、私には分からない。

 観念論に対しては、もう一つの批判がある。科学的真理の規範となるべき論理学が存在するとして、確かにその論理学は現象一般に適用できなければならない。だが、これは現象と全く切り離された論理自体として存在しているとまでは言い切れない。論理はむしろその適用に即して存在している。自然界に適用する論理の根拠となる実在を人間主体において措定することは果たして妥当であろうか。科学的真理の規範となる論理がいかに働くのかという議論と、その論理がどこで働くのか、という二つの議論を混同しないことが大切であるように思われる。すなわち、観念論はこの二つの議論を混同し、前者の議論から、後者の議論の結論として、論理の根拠が人間主体の側に存することを演繹しようとしているように思われる(観念論といっても人によって定義が違うので、ある種の人にはこれが藁人形論法に見えるかもしれない)。

 しかし、そうであるならば、唯物論の側もある一点において、観念論に譲歩しなければならない。つまり、科学的真理の規範となる論理それ自体の研究は、その論理の根拠となる存在が、自然法則として始めから存在しているのか、それとも人間があって初めて定立されるものなのか、といった議論の前段階として行われるべきである。この点において、カントの試みた当初の批判学は、唯物論でも観念論でもないはずだ。それはどちらの立場をとる科学者であれ、科学者であれば誰しもが同意せざるを得ない論理自体の研究となる。この論理自体の研究を通して初めて、この論理の根拠となる存在が自然の側にあるのか、人間の側にあるのかが判明するだろう。そもそも、それを決めるため方法自体、つまり科学的事実を用いる方法では循環にはならないか、それともやはり純粋に抽象的形而上学的な方法をこの論理の土台の上で展開していく方針の方がよいのか、この研究を通して明らかになっていくはずだ。

 従って、唯物論、観念論の議論をする前に、まず、現代の科学に十分に対応しうる、科学的真理の規範となる論理を明らかにすべきだ。この学は、全ての科学者にとって必須であるにもかかわらず、誰も経験的に知っていること以上のことを体系的には知らない。十分に有意義な試みであると思う。この論理の学を、カントの批判学に倣って、修正批判学と呼ぼのも悪くはない。科学的真理の妥当性を批判する学だからだ(「批判」という言葉の意味も、カントの『純粋理性批判』で用いられた意味で使っている)。

 この学の研究対象は今までの議論で明らかだろう。この学の研究に取り掛かるには、次に、この学の探求における諸規則、および方法論を適切に打ち立てなければならない。が、これはまた難しく骨が折れる作業になるので、また暇なときに考察しよう。今日はもう寝る。