雑録20220103 二つの適合度

 新年が明けた。だからといって特に何かが変わるわけでもないが、こういう時こそ、これから先の自分の計画を反省し再構築するのに、良い機会であると思う。私個人としては、更に勉学に励むとともに、近代人としての社会的な意識を高く保持して、現代の様相にも目を向けていきたいと思う。すなわち、日本社会をより精確にかつ大局的に批判していきたい、というのが今年の抱負の一つである。

 すでに私の内には現代社会に対する様々な問題意識があるが、それらをコンパクトに整理して俯瞰するにあたって、私は以下に述べるような考え方を形成するようになった。

 誰にでも分かりやすい例から入りたいので、まず初めに「社会不適合者」という言葉についての話から始めよう。集団に属することが苦手な人、常識的な社会生活を送る能力が欠けていると思われる人、などを非難するときに言われる言葉だ。あまり気持ちのいい言葉ではない。「あいつは社会不適合者だ」とか「お前は社会不適合者だ」などという会話は出来れば交わしたくないものだ。常識力の無い、わがままで使い勝手の悪い人間は、会社などでは邪魔者になりがちなので、出来ればそんな烙印は押されたくはない。だが逆に、変わっている、独創的な人間が、自分自身を卑下する時や、そういう人間たちが身内でお互いの傷を舐め合う時に、良い意味で使われたりもする。しかしこういう場合、この言葉を使用して自己を卑下する人達の方が、社会の方を卑下して優越感に浸っているだけだったりもする。むしろこういう形で使われているパターンの方が多いかもしれない。だが、自分が「社会不適合者」だからといって、社会との関係性を希薄なものにし、自分の殻に閉じこもるのは、あまり良い態度だとは思えない。

 私自身は、どちらかと言えば「社会不適合者」の側に寄っている自覚がある。しかしはっきりと主張するのだが、たとえ私が本当にいわゆる「社会不適合者」なる人間だったのだとしても、私の側には一切の非がないと思う。何故なら、本来「社会不適合」な人間など存在する筈が無いからだ。理想だと思われるかもしれないが、これはむしろ現実である。つまり、「社会」というものは人間が作った観念である。社会を作るのは人間である。人間が人間に適合した社会を作っていくのであって、その逆ではない。社会に不適合な人間がいるのではなく、他の人間達から意図的に無視もしくは排除された人間達が存在しているだけだ。だから私は「社会不適合」なる観念自体を認めたいと思わない。「社会不適合者」が存在している時点で、その社会の方に問題がある。人間こそが社会を作っていくのだから。社会というあやふやな観念が人間を振り回すことはあっても、実際その観念を形成しているのは現に存在する人間達の現実的な行為と会話なのであり、その観念を形成する主体は人間であるとみなす方がより現実的ではないか。

 この考えの是非はともかくとして、これによって今ここに相対立する二つの社会観が存在することが示されたと思う。すなわち、人間の「社会適合度」を上げていくことが重要であるとする考え方と、社会の「人間適合度」を上げていくことが重要であるとする考え方である。そして、この二つの適合度のどちらを評価するかが、日本と西洋との、社会観の決定的かつ根本的な違いなのではないかと考える。日本が前者、すなわち「社会適合度」を重要視する側で、西洋は後者に分類される。だからこそ日本では「社会不適合」なる言葉が蔓延しているのではないか。

 振り返ってみれば、自然権や社会契約説などの啓蒙思想の重要な概念も、人間に適合した社会を設計していくことを主眼として開発されたものではなかったか。尤も、西洋においてもこういった啓蒙主義、合理主義に対する批判というものも無くはないが、しかし例えばバークの保守思想などにおいて主張されているのは、人間の限られた思考力と視野の狭さの範囲において社会を設計しようと試みる無謀さが、結局のところ慣習に従って行動する人間に不適合な社会を生み出してしまいかねないということであって、ここでもやはり基本的なベクトルは変わっていないのである。つまり、論の根拠となる根本概念である「慣習」とは、ここでも社会を構成するところの人間に特徴的な行動形態なのであり、社会の人間への適合度を上げるために何をすべきか、という議論の前提自体は変わっていないのである。バークは、合理的とされる社会が、人間本来の在り方から離れていくことを危惧したのであって、合理的な人間が、社会から離れていくことを危惧したのではない。後者に関しては好き勝手しろ、としか言えないだろう。

 対して、日本においては人間の社会適合度を上げることが重要視されるし、また各個人にも要請される。これから先、私が分析し批判していこうと考える、日本型の教育制度、雇用制度、賃金制度、法制度なども、全て人間の側の、つまり日本国民の日本適合度を上げるために意図して設計されたものであると考えることが出来る。日本において重要なのは、自立した個人が自由で公平な経済活動を営むことではなく、日本社会に適合する形で円滑に社会生活を営むことなのである。

 これは移民制度などにおいて特に問題として顕在化していくと思われる。西洋諸国家のように、社会の人間への適合度を上げていくことが議論の前提となる場においては、移民してきた人間達にとって適合していると言える社会を作りつつも、これまでこの社会に奉仕してきた人間達にとっても住みやすい社会を維持しうるかのバランスと矛盾が問題となる。しかし、日本においては、移民であれ日本人であれ、とにかく日本社会に適合した人間を育てることが出来るかが問題となる。育てるコストが割に合わないのであれば、そうした移民達は使い捨ての道具のように酷使し、問題が発生すれば「社会不適合者」として入管施設に引き取って貰うしかないだろう。

 以上の議論により、こういった日本の様々な社会問題をより精確に分析し批判するにあたって、まずこの二つの適合度の違いを基本的な軸として用いながら議論していくことが可能になったと思われる。

 人間の社会適合度を高めることを重視する社会は、人間の数が多く経済的に勢いもある場合は、結束力が強く多幸感もある。しかし、それを長期に続けていけば、その社会を構成する人間は次第に均質なものへと変わっていき、新たなイノベーションを生み出し、現状を変革していくような力は削ぎ落されてしまいかねない。しかも、外部の人間達の動向からは閉じられているので、状況の変化や時代の移り変わりなどにも付いて行きづらいものとなっていくだろう。日本の産業やそこで行われる競争がガラパゴス化しがちなのも、この当たりに原因があるのではないか。