実学としての古文

 私はどちらかと言えば古文不要論者で、学校教育では古文などよりも税金の仕組みとか労働基準法などを優先的に教えるべきだと常々思っている。たとえ教養として古文がいかに重要であるとしても、まず個人として法的経済的に自立することを手助けするのが学校教育の本来の意義だと考える。

 しかし、世の古文擁護論者の主張という主張はどれも貧弱なものばかりで、これでは古文自体の文化的価値すら毀損されてしまいかねない惨状であるので、ここではあえて古文擁護論者の立場にディベート的に立って、古文の意義を論じてみたいと思う。

 

 さて、古文そのものの話に入る前に、まず学校教育で学ぶべきことは何であるかについて考えてみよう。それは勿論、社会に出て役に立つ技能であるべきだ。

 では、社会において最も重要な技能とは何か。それは、「他人と協力して事業を為す能力」、すなわち対人関係能力である。普通、対人関係能力とかコミュニケーション能力とかいうと、人はすぐ話術とか弁論術などの類いを連想しがちである。しかし、「他人と協力して事業を為す能力」において大事なのは、実はそのような外面的な技能ではない。本当に大事なのは自分の「クセ」「傾向」といったものを客観的に理解しておくことだ。例えば自分は人より怒りっぽいとかおっちょこちょいであるとか、そういう自分の性質を理解しておくことが、他人と協力するに際して一番大事なことなのである。自分のクセ、傾向といったものを抑えた上で他人と接し、また他人のそれに対しても寛容であることが、チームプレーの現場では欠かせない。

 

 では、現代社会、すなわちこのグローバリズムの時代において、上に述べた「自己理解の重要性」から何が言えるか。それは、我々日本人がこれから先、他の外国人と協力して仕事をする機会が増えるにあたって、我々日本人自身がどういったクセ、傾向を持っているかという自己理解が欠かせないということである。

 つまり、このグローバリズムの時代、我々日本人は「日本人である」ということがどういうことなのかを客観視できなければならない。

 そのために何を勉強すればよいか。それが古文である。

 

 古文とは、単に昔の日本人が書き、話したマニアックな言語なのではない。それは普段、我々日本人が現代日本語を使っている間は意識することの無いような日本語のクセ、傾向、思考パターンを自覚化するのにちょうど良い距離感を持って隔っている便利な言語なのである。

 

 少し古文文法の知識を借りて話を進めよう。古文の勉強でまず誰もが一度躓くのは、助動詞の学習であろう。古文の助動詞は28個もある。これらの助動詞が動詞の末尾にくっついて、その動詞の在り方を多種多様に変化させていくのである。だが28個といっても、これをいくつかのグループに分けて覚えられなくもない。以下に私の独断と偏見でグループ分けした助動詞を列挙する。

 

グループ1 (責任の助動詞)

 る らる 受身可能自発尊敬

 す さす しむ 使役尊敬(受身)

 

グループ2 (推測の助動詞)

 む むず じ 

 らむ べし まじ 

 けむ

 らし めり なり


グループ3 (過去・完了の助動詞)

 き けり つ ぬ たり り


グループ4 (願望の助動詞)

 まし まほし たし

 

 グループ1は主に使役や受身の意味を持った助動詞群である。責任者が誰であるかを示唆する助動詞なので、グループ1のことをここでは借りに「責任の助動詞」と呼びたい。グループ2は推測や可能性に関する助動詞群であるので「推測の助動詞」と呼ぼう。グループ3は過去・完了に関する助動詞群であるが、これらは「過去である」という事実を述べているというよりも、何らかの物事を「過去のものにする」働きを持っていると考える方がベターだと思う。グループ4は現実には実現しない願望などを表す助動詞群で、空想的な意味合いを持っている。

 これらグループ1〜4の助動詞を概観すれば日本人のクセ、傾向もある程度見て取れるのではないだろうか。グループ1「責任の助動詞」は責任の所在を曖昧化させていくには格好の道具だ。グループ2の「推測の助動詞」の多さからは、憶測ばかりで有効な危機対応に動かない政治家の姿が連想される。グループ3の「過去・完了の助動詞」は物事を「過去のものにする」意味合いを持っているので、日本人の過去をあまり振り返らない刹那的な側面に対応していると見える。グループ4の「願望の助動詞」からは現実には起こり得ない事象を求める空虚な夢想といったイメージが湧く。

 まとめると日本人というのはどうやら本来は「無責任で(グループ1)憶測的で(グループ2)刹那的で(グループ3)空虚な願望に浸っている(グループ4)」人間らしい。昨今の危機対応時における政治家や責任者の態度を彷彿とさせる。しかし、これらの助動詞は使いようによっては「責任を明確化し(グループ1)適切な予測を行い(グループ2)過去に縛られず(グループ3)謙虚に要望を伝える(グループ4)」文章作成にも用いることができるであろう。こちらの側面からは、明治維新や戦後復興を乗り越えてきた勤勉で実直な日本人サラリーマン達の姿が目に浮かぶ。

 

 ここまで、古文を擁護するつもりでだらだらと文章を綴ってきたが、結局後半の方は実に怪しげな私の個人的解釈の披露になってしまった。ともあれ、こんな感じで古文の学習から日本人のクセ、傾向、思考パターンといったものに考察を広げ、今も昔も変わらない我々日本人の面従腹背的態度に想いを馳せるのも一興だろう。そこから得られた蘊蓄が、近い将来外国人と協同で仕事を進めるときの役に立たないとも限らない。

洋楽が聴かれない件

新聞で、最近の若者は洋楽を聴かない、という記事を読んだ。ヒットチャートの100位以内にすら洋楽が一曲も入っていないらしい。これをもって日本の音楽産業のガラパゴス化と見る向きもあるようだが、自分はそうは思わない。むしろこれは、かなり緩やかではあるが邦楽の世界進出なのではないかと思う。

 

一つ目の理由は、邦楽自体のレベルが上がったと思われるからだ。

 

私自身は、昔から邦楽よりむしろ洋楽を好んで聴いてきた。何よりビートルズが好きだし60年代から90年代にかけての有名ロックバンドなら大体聴いたことがある。しかし、なぜ洋楽ばかり好んで聴くのかと言えば、正直なところ、邦楽に対し全体的にレベルが低いと思っていたところがあるのも理由の一つに挙げられる。これは全くの主観で、当然そんなことはなく、個人的な無知に由来した偏見でしかないのだが、これまでの邦楽にはそう思わざるを得ないような側面は多少はあったと思う。特に平成の中頃、アイドル全盛期の時代は酷かった。音楽が好きなのか、容姿が好きなのか、はたまたお金を貢ぐ宗教的奉仕行為が好きなのか、何だかよく分からない熱狂的ファンのノイジーマイノリティがヒットチャートを荒らしまくっていた気がする。最近はジャニーズの性加害問題などか取り沙汰されたり、チャートの仕組みが変更されたりなどして、かなりましになったと思う。

 

また最近はボカロやJPOPの数多くの流れの中から多種多様な音楽性を有するアーティスト達が若者から支持を受けており、その楽曲のクオリティ、特に忙しく変化するメロディとその構成の複雑さには目を見張るものがある(耳に目はないが)。邦楽に疎いので、何がどうなっていつの間にこんな形態変化を遂げていたのか知る由もないが、これならヒットチャートに洋楽が一曲もなくても心配無用だろう。

 

二つ目の理由として、洋楽もまた、内向き・ガラパゴス化していることを忘れずに指摘しておきたい。洋楽というのは90年代以降はロックが衰退しヒップホップが主流となっていった流れがある。ヒップホップはなんと言ってもその歌詞に最大のウェイトを置くため、非英語圏に洋楽は伝わりにくくなる。昔は英語が全然喋れないのにビートルズだのレッドツェッペリンだの熱く語っていたおっさん達が沢山いたが、ヒップホップはそうはいかない。この単語とこの単語がこういう発音でこういう風に韻を踏んでいたり抑揚を作っていたりして凄い、みたいな話はある程度その言語に素養がないとできない。だから非英語圏で洋楽=ヒップホップが流行らないのも当然だと思う。無論、日本語のヒップホップはその限りではない(ただし日本人がヒップホップの音楽・文化を受容するにはまだもう少し時間がかかるだろう)。

 

まとめると、邦楽界ではアイドル系音楽が衰退し、それまでサブカルだったボカロや邦ロックから様々なアーティストが生まれてきて全体的なレベルが高まったこと、洋楽の方ではヒップホップが主流となり非英語圏にはその魅力が伝わりづらくなったこと、この二点が日本の若者に洋楽が聴かれなくなった主要因ではないだろうか。

 

更に最近では、昭和の歌謡曲やシティポップが海外で再評価される動きもあるらしい。何故かはよく分からないのであんまり語れないが、この動きに影響を受ける形で、逆輸入的にこれらの音楽を自身の楽曲に取り入れる邦楽アーティスト達も散見される。このムーヴメントを通して海外で日本語楽曲を聴く文化的素地が形成されれば、これら現代の邦楽アーティストにとっても追い風になるだろう。邦楽は今ゆるやかに世界進出しているのではないか。

教養は二の次でいい

教養は二の次でいい。まずは実学を学ぶことだ。法的・経済的・心理的に自律した個人であってこそ、初めて教養はその価値を発揮する。この社会がどんな仕組みで回っていて、そこにどんな専門的知識でもって貢献していくか、それを考えるべきだ。貴族でもないくせに社会を見下して高尚な思想やら芸術を誇るのは馬鹿のすることだ。

 

確かに、自己啓発本をいくら読んだとて人生の役に立つことはない。しかし、簿記や経済学の勉強は違うと思う。古典のように時代を超えた価値を有していないとしても、この社会を生きる上では少なからず意味があるはずだ。それは勉強する以前よりはこの社会に対する見通しをクリアにしてくれるはずだ。

 

経済的に自律した個人として生きていくため、毎晩時間を削り実学の勉強に徹する人たちがいる。そして、そういう人たちを上から馬鹿にして、やれ人生だの教養だのとほざく馬鹿も、残念ながらこの国には沢山いる。福沢諭吉丸山眞男も読んだことのない自称教養人・知識人は数多い。そういう連中に限って、この世の中に対する見識をまるで持ち合わせていないから、家族や会社、国といった組織に依存するだけ依存して、あーだこーだと文句ばかり言うものだ。

 

日本の場合、個人的な価値規範の合理化まで深まった教養を持ち合わせていないのは大衆も知識人も同様だ。夏目漱石が「俳諧的」と呼び、福沢諭吉が「論語読みの論語知らず」と適切に比喩したそういう連中が、日本の近代化に決定的な悪影響を与え続けていたと思う。個人として自律せねば、という倫理規範が弱すぎて、自分のことはなるようになるもので頑張ってる奴は馬鹿だ、みたいな風潮がまかり通りすぎている。結局そういう軟弱な心持ちに合わせて、権威とされる本を選びとって読書するから考え方も偏っていく。全然総合的でも徹底的でもないただの視野狭窄が教養ということになる。これで国とか国民が進歩するはずがない。

 

あげく大衆はアカデミズムを見下すようになる。それに応じて実産業を馬鹿にする風潮が読書界の方でも高まっていく。まともに勉強が出来ないから簡単に論破されるのだが、そうすると今度は合理主義とか機械主義というものに現代社会を当て嵌めて、藁人形論法で勝った気持ちで悦に入る。科学と人文学の間にすら溝をつくり、内輪で世間を馬鹿にすることが教養だという勘違いだけが世代を超えて伝えられていくのだ。全く憤慨なり。

MBTIとかいう性格診断について

最近、周りの友だちとかがこの性格診断をよくやるようになった。世間的にも流行っているらしい。

 

自分も最初はお試し気分でやってみて、それなりに楽しかったけど、後々になってなんか悲しくなってきた。これで大真面目に性格とか相性とか議論してる人たちが想像を超えて沢山いることに気がついたからだ。

 

この流行は二つの面で悲しい。一つは若者の知的劣化を、もう一つは若者の情操的劣化を反映していると思うからだ。

 

まず、普通に考えてこの手の性格診断は眉唾物だと思う。「私は〇〇という性格です」というアンケートに答えると「あなたは〇〇という性格です」という答えが返ってくる。当たり前だ。「すごい!当たってる!」という反応が多くて驚愕する。現代人、もしかして本当に馬鹿なのか?

 

大体、人間の性格は〇〇タイプみたいに分類して理解するものでもない。人間は矛盾の塊だ。普段優しい人が、時には物凄く冷酷な一面を見せたりすることがある。いつもクールで近づきがたい感じの人が、実はあることに物凄い情熱を注いでいたりする。人間は総合的だし多様な側面を持ってるし、それは〇〇タイプみたいに割り切れるものではないと思う。それに、人間は時間と共に変わっていくものだし、変わっていけるものだ。

 

〇〇タイプみたいなスティグマがないと人間を理解できない人たちが多いのは悲しい。普段小説とか伝記とか読まないのだろうか。想像力の貧困を感じる。性格診断に頼らずに、人間の複雑さ・多様さに向き合うことが難しくなっているのかもしれない。危うい社会だと思う。悲しい。

単なる傍観者の弱々しい宣言

 連日、ガザ地区の紛争に関するニュースを目にするようになった。新聞の一面も総合面もイスラエルハマス、ガザといった言葉で埋め尽くされている。テレビでは中国やロシアが仲介に向けてどのような動きを示したかについて特集を組んだりしている。

 無関心ではいられない。我々と何ら異なることのない民間人が被害にあっている。だが、これらの騒々しいニュースの連続に一喜一憂して何になるのか。そういうふうに世間を斜めに見ながら何もできない自分は何者なのか。葛藤が続く。

 世界は常に重大なニュースとそれに付随した論争で溢れている。ロシアの侵略戦争すらまだ終わっていないのだ。国際情勢は日々その不透明感を増している。台湾有事が明日起こるとも限らない。そして我々はそれらの歴史的重大事に対し、なんらかの意見を持とうとする。しかし大抵の意見は意見のままで終わる。SNSはいつも騒がしい。

 ガザ地区の紛争について無関心ではいられない。しかし分断しか生まない論争に参加するつもりもない。論争に参加することで無責任ではないと思い込む傲慢さと偽善には反吐がでる。我々がスマホの画面に目を向ける時間が増えるほど、本当の意味で外の世界に目を向ける時間が減っているように感じる。いつしか人間は気づく間も無く、リアルの世界を放棄してヴァーチャルの世界に耽るようになっていた。

 無関心ではいられないが無責任でもいられない。しかし、どうすればいいのかわからない。現状、私はただの傍観者にすぎない。

 だが、この事実から目を背けるつもりもない。これを私の、最初の、反抗地点としたい。せめて、SNSへの没入には抗っていきたい。我々の無責任さ、無関心さを忘却させてくれる便利な装置に身を任せず、自由の罰を受難として引き受けていく覚悟が必要だ。そこでは多くの言葉にしづらいこと、目を避けてしまいがちなことが忘却され、親しみのある枠組に引き摺り込まれ、存在は頽落し続けている。だがそれらの暗く醜い歴史のトラウマに向き合い、恐れずにそれを掘り下げていく、その試みの果てにこそ真の連帯への道があるはずだ。

 

 

 

大衆の崩壊 (4)トートロジー的表現活動

 このような大衆になりえなかった集合体、極端かつ無個性な群れの出現は、まさに「大衆の崩壊」によって生じた最も特徴的な現象と言えるだろう。私は彼らを「仮面の軍団」と呼ぶことにしたい。ここで「仮面の軍団」が仮面をつけているという表現は、SNSにおける匿名性を象徴すると同時に、彼らが一つの集合体として互いに同調することで、失われた大衆感覚を補填しようとしていることを意味する。

 例えば、SNS上で特定のトピックについて議論しているときに、「仮面の軍団」が現れることがしばしばある。彼らは自分たちの主張を支持するために、同じような意見を持つ人々とつながり、またその意見を強化するために同調し、何らかの属性を仮面としてかぶり個性を隠す。そうすることによって、彼らの攻撃力は活性化した群衆バッタの大群のごとく強化され、彼らにとって相容れないSNS上の敵性の投稿を全て食いつぶしていくのである。

 彼らは、自分たちの信じる正義を貫徹するためには、手段を選ばない。SNS上では「仮面の軍団」によるリンチが常態化していると言える。一度彼らから敵性の存在として認定をうければ、繰り返し同じような侮蔑を帯びた攻撃を受けることとなり、彼らの拡散力の高さとその匿名性とによって、攻撃者である彼らの側が多数派であるかのような錯覚を与えられてしまう。このようなリンチ行為は、まさに「仮面の軍団」にこそ可能な犯罪的行為と言えるだろう。

 

 ところで、彼らの言動の最大の特徴は同じ「正論」を表現を変えて繰り返し表現し続ける点にあると言えるだろう。彼らは彼ら自身が「正論」と考える「正論」を繰り返し反復し、繰り返し「論破」する。このような空しいトートロージー的活動は、果たして彼らだけに固有のものだろうか。

 多くの人は、このトートロジー的な正論の押し付けを彼らの専売特許と考えるかもしれない。しかし、例えば現代の若者が多用して用いる「推し」「推し活」などの文化概念にもまた、同じようなトートロジー構造がひそかに隠れているように思われる。

 「推し」というのはある人や物、作品などを自分自身が応援し、愛する対象として選んでいることを表現する言葉である。「推し活」というのは、そのような自分が応援しているアイドルやタレント、アーティストなどの活動を支援するために行う活動のことを指し、具体的には、ライブやイベントに参加したり、CDやグッズを購入したり、SNS上で応援メッセージを投稿したりする活動のことをいう。ここに先の「仮面の軍団」達の攻撃的トートロジー表現活動と同じ類型を指摘することは出来ないだろうか。

 つまり、現代の若者が何らかのアイドルやコンテンツを「推す」時、最早それを「推す」理由は「推し活」の仲間集団にしか共有されない。彼らは彼らが「推す」対象の文化的価値を大衆感覚を土台とした批評によってではなく、「推す」ことそれ自体によって証明しようと試みている。

 本来、文化的営為や作品というものには、それに価値を見出すための、それまでの文化に対する何らかの差異や新規性があってこそ、共感や支持が生まれてくるものである。しかし、現代の「推し活」文化においては、そのコンテンツの価値は「推し」の総量によって決まるのであって、大衆感覚を土台とした批評によってではない。すなわち彼らは「推す」から「推す」のである。「推し活」文化は「あなたの感想」でしかない価値評価基準を、いわば逆手に取った形の文化活動と言える。

 「正論」のみが、失われた大衆の共通感覚を補填する唯一の対話手段である現代、大衆になり損ねた群集においては、政治においても文化においても絶対的な数の多さのみが、説得力の強さの根拠となる。トートロジー的表現活動はそのような時代の潮流の中で、情報の氾濫をさらに促進させる機能を持つ。

 

 

 

大衆の崩壊 (3) 「論破」が流行るわけ

 このように、大衆に属する人々が共通して保有する常識や共通感覚が消滅し始めている現代において、私たちはいかなるコミュニケーションを他者と行っていけば良いのだろうか。

 年を重ねた高齢のサラリーマンが「近頃の若者は〜」というフレーズを口にするのは、どの時代にも限らずそうであったが、現代においてはこの近頃の若者自身でさえ、他の近頃の若者が何を考えているのか分からない。全ての不可解と音信不通さが「多様性」の名の下に、粛々と片付けられていく時代である。最早かつての飲み会文化のように、大衆感覚に基づく共感と、そこからの差異化のゲームとしての世間話は不可能になりつつある。

 では、現代の若者はもはや他者とのコミュニケーションを、諦めてしまっているのだろうか。ある程度はそうかもしれない。近年の投票率の低さなども、その傾向を反映していると思われる。他者とコミュニケーションを取れない人、というよりそもそも取ることを避けようとする人たちが、政治に積極的に参加するとは考えがたいからだ。だが、人間の本性からいって、現代の若者が完全にそれを諦めたと結論づけるのは、時期尚早かもしれない。

 

 ところで最近、某掲示板の創設者が、こういった若者達からの親近感や支持を基盤に、テレビやネット番組で引っ張りだこになっている。元はと言えば、彼自身のYouTubeチャンネルでの活動を録画した動画が、他のYouTubeアカウントを持つ人たちによって再編集され拡散されていく中で、多くの若いユーザーの目に触れて親しみのモテるキャラクターとして消費されていったのがその人気の原点である。単純明快な「正論」で、寄せられてくる視聴者の様々な質問を勢いよくなぎ倒し、合理的・効率的な発想に基づく独自の幸福論を、ネットで検索して入手した浅薄な博識と掛け合わせて開陳するスタイルが、現代の若者の多数から支持を得ているようだ。

 どこの馬の骨だか分からない知識人やら大学人を相手取り、明解で単純な「正論」が、相手方の偏見に塗れた意見を「論破」する。彼の独特の語り口調やシンプルな論理展開に影響を受けた一部の若者には、そんな彼の活躍を追体験するかのように、職場や学校で目上の人たちに「論破」を繰り広げる猛者もいるらしい。巷では、いわゆるコスパ思考や合理性に取り憑かれた若者達が、正常なコミュニケーションの在り方を忘れてしまったかのような危惧がなされている。普段の会話や議論にもコスパや合理性しか求めない態度には、もはやかつての大衆の共通感覚や常識を土台としたコミュニケーションを、積極的に放棄しているかのような印象を受け取ることができる。

 しかし私はこの現象に、むしろ現代の若者が、何とかして他者とコミュニケーションを取ろうとするための苦悩を見て取れるのではないかと思う。かつて大衆が持ち得た共通感覚や常識が喪失してしまった現代、他者とのコミュニケーションはそれらの土台の代わりに、いわゆる「論理」に縋るかたちでしか成立しない。「大衆感覚」はいまや単なる「あなたの感想」になり下がってしまった。その代替品が鉤括弧つきのいわゆる「正論」である。コミュニケーションの不能感は、この「論破」の全能感によって補われている。

 しかしその「論破」も所詮は自分の側から見たものにしか過ぎない。コミュニケーションの土台となる共通感覚が無い以上は、その代わりとなる「正論」をいくら振りかざしたとて、所詮それは自分にとっての「正論」であり、相手を納得させることはできない。勝手に「正論」を振りかざし、勝手に「論破」できたと思い込んで優越感に浸るだけの一方向の説教、いわゆる「クソリプ」がSNSでは蔓延する。それは共通感覚を喪失し、他者とのコミュニケーションに対して不能感を感じる、大衆になりえなかった者たちの悲痛の叫びなのかもしれない。