単なる傍観者の弱々しい宣言

 連日、ガザ地区の紛争に関するニュースを目にするようになった。新聞の一面も総合面もイスラエルハマス、ガザといった言葉で埋め尽くされている。テレビでは中国やロシアが仲介に向けてどのような動きを示したかについて特集を組んだりしている。

 無関心ではいられない。我々と何ら異なることのない民間人が被害にあっている。だが、これらの騒々しいニュースの連続に一喜一憂して何になるのか。そういうふうに世間を斜めに見ながら何もできない自分は何者なのか。葛藤が続く。

 世界は常に重大なニュースとそれに付随した論争で溢れている。ロシアの侵略戦争すらまだ終わっていないのだ。国際情勢は日々その不透明感を増している。台湾有事が明日起こるとも限らない。そして我々はそれらの歴史的重大事に対し、なんらかの意見を持とうとする。しかし大抵の意見は意見のままで終わる。SNSはいつも騒がしい。

 ガザ地区の紛争について無関心ではいられない。しかし分断しか生まない論争に参加するつもりもない。論争に参加することで無責任ではないと思い込む傲慢さと偽善には反吐がでる。我々がスマホの画面に目を向ける時間が増えるほど、本当の意味で外の世界に目を向ける時間が減っているように感じる。いつしか人間は気づく間も無く、リアルの世界を放棄してヴァーチャルの世界に耽るようになっていた。

 無関心ではいられないが無責任でもいられない。しかし、どうすればいいのかわからない。現状、私はただの傍観者にすぎない。

 だが、この事実から目を背けるつもりもない。これを私の、最初の、反抗地点としたい。せめて、SNSへの没入には抗っていきたい。我々の無責任さ、無関心さを忘却させてくれる便利な装置に身を任せず、自由の罰を受難として引き受けていく覚悟が必要だ。そこでは多くの言葉にしづらいこと、目を避けてしまいがちなことが忘却され、親しみのある枠組に引き摺り込まれ、存在は頽落し続けている。だがそれらの暗く醜い歴史のトラウマに向き合い、恐れずにそれを掘り下げていく、その試みの果てにこそ真の連帯への道があるはずだ。