大衆の崩壊 (1) ポピュリズム

 近年、政治の世界でポピュリズムなる語が頻繁に取り上げられている。ポピュリズムとは一般に、エリート的行政機構には反映されにくい、有権者多数の社会的不満が原動力となって生じる、無軌道で衝動的な政治運動を指す。トランプ元大統領の強烈な個性によって、この言葉は瞬く間に周知のものとなり、いまやこれを取り上げて議論すること自体、やや時代遅れ気味になりつつある。

 

 このポピュリズムという言葉は、知識人・教養人界隈では哲学者オルデガの著作『大衆の反逆』と結びつけてイメージされ議論されることが多い。しかし、現代のポピュリズムは本当に大衆の反逆として受け止めるべきなのだろうか。むしろこれはインターネットが社会的影響力を持ち始めて以降、常に進行し続けてきた「大衆の崩壊」とでもいうべき傾向に由来する社会的現象なのではないか。

 

 ポピュリズムの主体となりそれを推し進める人達と、逆にそれに危機感を覚え対抗姿勢を打ち出していく人達には、一つの共通した誤謬があるように思われる。すなわち彼らは、未だにこの現代社会の基盤として「大衆感覚」とでもいうべきものが存在し続けていることを暗黙の前提にしている。しかし事態ははるかに早く進行しているのだ。すなわち、すでに「大衆感覚」は消滅している。私達の当たり前が、どこまで当たり前なのか、もはや誰にも検討がつかない。それは一般社会全体に通用するものかもしれないが、もしかしたら隣の家の人にも理解されえないものかもしれない。私たちにそれを判断する術は、もはやどこにもない。

 一言で言えば、私たちは何の配慮も無しに、常識を前提として他人と世間話をすることが難しくなった。気心の知れた友人とであれば何でも話し合うことができるが、ご近所さんとか会社の同僚とかとはそうはいかない。相手は国粋主義者かもしれないし、過激な平等主義者かもしれない。迂闊に世間話を語りかけることは危険なのだ。安全なのは天気の話くらいである。

 その現状に未だ気づいていない人達が、自分たちらが当たり前だと認識する価値規範に公然と反対する集団の勃興を目の当たりにすることで、強いショックと相当な不安を覚えることは想像に難くない。世間話を振っただけのはずなのに、強い眼差しで睨み返される、あるいは普段は優しい知人が、顔を熱くして歴史問題について猛烈な反論を繰り広げる、などのショッキングな光景は、現代においてこそ特徴的な事象ではなかろうか。

 

 話を戻すと、ポピュリズムという現象は、本質となる時代傾向の派生に過ぎない。その本質とは「大衆の崩壊」である。従って、現代のポピュリズムは決して「大衆の反逆」ではない。むしろ滅びゆく大衆(であったはずの人々)の最後の足掻きである。これは近代における高度消費社会や大衆文化の形成とは真逆の傾向を有しているのである。すなわち現代における様々な社会現象は、決して近代大衆社会で繰り返し生じえた、愚民的イメージを伴う社会現象のアナロジーとして捉えてはならない。その逆の傾向を本質とする、派生現象と見做さなければならないのである。

 この文章ではポピュリズムを例にとり、近代や中世とは異なる、現代独自の時代傾向として「大衆の崩壊」という概念を取り上げた。今後私たちの時代と社会とが、この本質的時代傾向によってどのように変質していくか、追って記述していくつもりである。