大衆の崩壊 (3) 「論破」が流行るわけ

 このように、大衆に属する人々が共通して保有する常識や共通感覚が消滅し始めている現代において、私たちはいかなるコミュニケーションを他者と行っていけば良いのだろうか。

 年を重ねた高齢のサラリーマンが「近頃の若者は〜」というフレーズを口にするのは、どの時代にも限らずそうであったが、現代においてはこの近頃の若者自身でさえ、他の近頃の若者が何を考えているのか分からない。全ての不可解と音信不通さが「多様性」の名の下に、粛々と片付けられていく時代である。最早かつての飲み会文化のように、大衆感覚に基づく共感と、そこからの差異化のゲームとしての世間話は不可能になりつつある。

 では、現代の若者はもはや他者とのコミュニケーションを、諦めてしまっているのだろうか。ある程度はそうかもしれない。近年の投票率の低さなども、その傾向を反映していると思われる。他者とコミュニケーションを取れない人、というよりそもそも取ることを避けようとする人たちが、政治に積極的に参加するとは考えがたいからだ。だが、人間の本性からいって、現代の若者が完全にそれを諦めたと結論づけるのは、時期尚早かもしれない。

 

 ところで最近、某掲示板の創設者が、こういった若者達からの親近感や支持を基盤に、テレビやネット番組で引っ張りだこになっている。元はと言えば、彼自身のYouTubeチャンネルでの活動を録画した動画が、他のYouTubeアカウントを持つ人たちによって再編集され拡散されていく中で、多くの若いユーザーの目に触れて親しみのモテるキャラクターとして消費されていったのがその人気の原点である。単純明快な「正論」で、寄せられてくる視聴者の様々な質問を勢いよくなぎ倒し、合理的・効率的な発想に基づく独自の幸福論を、ネットで検索して入手した浅薄な博識と掛け合わせて開陳するスタイルが、現代の若者の多数から支持を得ているようだ。

 どこの馬の骨だか分からない知識人やら大学人を相手取り、明解で単純な「正論」が、相手方の偏見に塗れた意見を「論破」する。彼の独特の語り口調やシンプルな論理展開に影響を受けた一部の若者には、そんな彼の活躍を追体験するかのように、職場や学校で目上の人たちに「論破」を繰り広げる猛者もいるらしい。巷では、いわゆるコスパ思考や合理性に取り憑かれた若者達が、正常なコミュニケーションの在り方を忘れてしまったかのような危惧がなされている。普段の会話や議論にもコスパや合理性しか求めない態度には、もはやかつての大衆の共通感覚や常識を土台としたコミュニケーションを、積極的に放棄しているかのような印象を受け取ることができる。

 しかし私はこの現象に、むしろ現代の若者が、何とかして他者とコミュニケーションを取ろうとするための苦悩を見て取れるのではないかと思う。かつて大衆が持ち得た共通感覚や常識が喪失してしまった現代、他者とのコミュニケーションはそれらの土台の代わりに、いわゆる「論理」に縋るかたちでしか成立しない。「大衆感覚」はいまや単なる「あなたの感想」になり下がってしまった。その代替品が鉤括弧つきのいわゆる「正論」である。コミュニケーションの不能感は、この「論破」の全能感によって補われている。

 しかしその「論破」も所詮は自分の側から見たものにしか過ぎない。コミュニケーションの土台となる共通感覚が無い以上は、その代わりとなる「正論」をいくら振りかざしたとて、所詮それは自分にとっての「正論」であり、相手を納得させることはできない。勝手に「正論」を振りかざし、勝手に「論破」できたと思い込んで優越感に浸るだけの一方向の説教、いわゆる「クソリプ」がSNSでは蔓延する。それは共通感覚を喪失し、他者とのコミュニケーションに対して不能感を感じる、大衆になりえなかった者たちの悲痛の叫びなのかもしれない。