強い現実主義 (2)

 ここで今一度議論を整理したい。

 「強い現実主義」とは、どういう点で「強い」のか、またどういう意味で「現実主義」なのか。

 まず私がこの議論で設定した、イデオロギーの「強さ」について説明する。この「強さ」とは、つまるところイデオロギーの、現実の変革に対する影響力の強さを指す。すなわちそのイデオロギーでもって、具体的な政治行動あるいは政策提案に直結しうるか否かが、強さを測る指標となる。また、それらの政治行動あるいは政策提案は、実行可能で現実の変革に対して有効であればあるほど、そのイデオロギーは強いと言える。従って、ここで言うイデオロギーの「強さ」とは、そのイデオロギーが抽象的、観念的な議論の枠で収まらず、どのくらい具体的な政治状況や政策立案と結びつきを保持しうるのかの指標、つまり、その結びつきの強さを指しているのである。

 従って、「弱い」イデオロギーの持ち主は、政策の指標となるはずのイデオロギーを持っているはずなのに、政策の判断に全然そのイデオロギーが役に立たないという事態にしばしば陥ってしまう。理想が空想で終わってしまい、現実の政治と弱い結びつきしか持たないからである。一方で「強い」イデオロギーは、現代社会の状況でいかなる政治行動を取るべきか、の指針となるので、それは容易に様々な政策に対して良し悪しを判断する助けとなる。

 では「現実主義」とはどういう意味での「現実主義」なのだろうか。この言葉は確かにいくつかの意味を含んでいるが、この議論ではまず第一に、「主知主義」と「懐疑主義」という対義語の組の、後者の方が意味しているところのものを指す。すなわち、「理想主義」のイデオロギーが「完璧な社会の設計が、理性でもって可能である」という前提に立つイデオロギーのことであるとすれば、「現実主義」のイデオロギーはその逆を意味する。つまり、「現実主義」のイデオロギーは、完璧な社会の構築など誰にも出来ないと考える。歴史的にもそういった試みは常に失敗してきたし、社会は複雑で一人の能力では把握し切れるものではない。そもそも理想の土台となる価値や考え方自体、社会の発展と共に変化していく。従って「現実主義」のイデオロギーは、「理想」というものを何か具体的に実現できるものとして考えない。そもそも「理想」自体が社会と共に変わっていくのである。この点において、自由主義保守主義はまさに「現実主義」なのであり、「理想主義」の社会主義全体主義に対して、しばしば共同戦線を張ることがあった。ここでの「現実主義」は、まず第一に、誰にも「理想」の社会など作ることが出来ないという考え方のことを指す。

 また第二に、その理想の実現という建前のもとに権力を独占する者は、まず間違いなく腐敗するという考え方も、「現実主義」である言える。第二の意味での「現実主義」は、すなわち「権力者は常に腐敗し暴走する可能性がある」とする考え方のことである。

 これで、多少は「強い現実主義」の輪郭がはっきりしてきたと思う。「強い現実主義」を一言で説明するならば、それは次のようなモットーに要約できる。

 

「常に疑いを持ち警戒せよ。しかしそこに立ち止まらず、前に進み続けることを試みよ」。

 

 「強い現実主義」は、政治家にとっては実際に政策を提案する際の、有権者にとっては政策を評価する際の基準となり、現実の変革に多大な影響を与える。また、それは何か特定の理想を目指して邁進するものではなく、そういった理想に向かう急進的かつ強権的な改革に「致命的な思い上がり」として反対する。

 しかし、これは一見矛盾しているように思うかもしれない。「強い現実主義」は、理想を目指さないのに、何故現実を変革しうる力を持つと言えるのか。

 理由は単純である。強い現実主義は「理想」ではなく「より良い」社会を目指すからだ。これは屁理屈でも単なる言葉遊びでもない。強い現実主義は、誰かが決めた「理想」が正しいかどうかは誰にも分からないと考える。しかし一人一人の社会変革の努力が総合的に「より良い」社会を形成していくと考えるのだ。つまり、ある一つの同じ考えを持つ人達が理想の社会を作るのではなく、様々な価値や考え方を有する多様な人達のそれぞれの努力と協力の総合として、より良い社会が作られていくのだ。

 我々には、社会を構成する我々全員が、つまり価値観も考え方も環境も異なる我々全員が、満足できる理想を知ることなどできない。しかし、それら多様な人達の多様な努力と挑戦が、社会をより良いものに変えていくと考えることは出来る。

 社会も人間も無機質な機械ではない。それらは全て自己形成を織りなす有機体であって、決して何らかの設計によって構築されるものではない。だから、ある一つの価値観、考え、理想に基づいて社会を改良しようと試みるのは誤りである。社会は多種多様な人達によって構成される多中心的な有機体であり、そこで起きる様々な挑戦と失敗が、総合的にかつ自発的に社会それ自体を発展させていくのだ。

 これが「強い現実主義」の考え方である。「強い現実主義」は、一つの理想によって社会が改良されるとは考えず、また何もせず現状に満足するだけで良いとも考えない。様々な価値と考え方を有する人間達の努力の総合として、「理想」ではく「より良い」社会が、漸次実現されていくのである。

 

 従って、真の意味での「強い現実主義」こそ、自由主義なのである。自由主義は、「強い現実主義」として、人々が自己の自由を最大限行使しうることこそが、社会発展の最重要要素であるとする。つまり「強い現実主義」としての自由主義は、個々人が自由を行使することによって、「より良い」社会が形成されていくものと考える、そういうイデオロギーなのである。自由主義は、何か一つの独善的な理想によって社会を改良できると考えない点において「現実主義」であり、個々人の自由の行使によって、開かれた社会それ自体が絶えず改善されていく状況を促す点において「強い」イデオロギーなのである。

 当然、人々の行使する自由によって社会の変革に貢献しうる成果はごく些細なものでしかない。数多くの人々の、数限りない挑戦の内、成功に至る事業はほんの僅かなものである。しかし、だからこそ自由は社会の進歩を支える最も重要な要素である。変革は少数の人達によって成し遂げられるが、誰がその人であるかは、その変革が起きる前には誰にも分からない。故に誰にでも自由は保障されていなければならない。

 それだけではない。社会がこれから先、進歩していくであろうという見通しの下、それに労働を通じて参画し働いていくことは、多くの人々に充実感と快活さを与えうる。例え、多くの挑戦が失敗に帰したとしても、進歩し続ける社会においては、次こそ成功に至るかもしれないという期待が持てる。そもそも挑戦のみならず、数多くの失敗もまた社会の進歩に貢献する。従って、研究開発の自由、経営企画の自由、投資の自由、表現言論の自由、等々が社会を進歩させる原動力となる。人々は、これらの自由、まとめて言えば、外的な障害や規制が無いという意味での自由を通じて、社会の進歩に貢献し、自己の幸福を増大させていくことが出来るのだ。

 これらの活動を自由によってではなく、ある一部のグループのみによって独占的に計画され管理される社会では、このような社会の進歩は望めない。自由のない社会は停滞する。そこには管理された計画があり、挑戦を妨害する数々の規制と同調圧力がある。そのように進歩しない社会は、現状維持を試みて時代変化に適応していくことを怠り、衰退へと転がり落ちる。衰退していく社会では、人々はリスクを取って挑戦することよりも、今ある資源を守り抜くことに力を入れ、限りある富を巡って、熾烈で非生産的な椅子取りゲームに血眼になる。転落の恐怖によって他者を転落させ、自己の保身を図るか、あるいはその社会から逃亡することを図る。衰退する社会における抑圧は増大し続け、将来への期待は減少し続ける。衰退し続ける社会では、将来増大していくであろう困難に、耐え続けることは難しい。

 これは、進歩し続ける社会において、多くの人々が将来改善されるであろう困難を耐え忍び、その改善に向けて努力していくことが出来るのとは対照的である。従って、社会が進歩し、生活が改善されるという期待が持てる社会こそ、実際に進歩する。そして、それは自由を行使する様々な人々の挑戦によってこそ促進されるものである。これこそが自由の意義であり、力なのである。