大衆の崩壊 (2) サブスク文化

 「大衆の崩壊」という仮説は、中高年以上の人たちにはいまいち納得がいかないかもしれないが、現代の若者文化には顕著に見て取ることができる。

 例えば、かつての「アイドル」と言えば日本なら松田聖子中森明菜、海外ならマイケル・ジャクソンやマドンナの名前を誰でも挙げることができた。しかし、今の若者世代のアイドルで、そのようなかつてのアイドルに匹敵する人名を挙げることはかなり難しいと思われる。無論、近年でも橋本環奈やテイラー・スウィフトなどほとんど誰でも知っている有名人がいない訳ではない。しかし、このような現代のアイドルは、かつてのそれと同じように「知っていて当然である」という枠組みにはもはや属してはいない。

 若者にとって、このような有名アイドルは単にテレビでよく見る芸能人の一人に過ぎず、YouTubeでよく見るYouTuberと同じ次元において、相対的に有名であるに過ぎない。現代のアイドルも、かつてのアイドルと同じように有名であり影響力も絶大ではあるが、テレビというメディアが支配的ではない現代において、それは他の世代が一度も名前を聞いたことのないような有名YouTuber達と同じ次元でのことなのである。

 ところで、この若者に人気のYouTuber達の活動は、直接彼らのYouTube動画に主体的にアクセスしない限りは、実際に視聴することはできない。従って、このYouTuber達のような現代の有名人は、もはや「知っていて当然である」という枠組みには属さず、あくまでも「知っている人は多いが、知らなくてもよい」のである。そして、現代のアイドル達も所詮は後者の枠組みに属する、相対的な有名人なのである。

 近年の若者文化とこれまでの若者文化の決定的な差異は、ここまで述べてきたように、情報を発信するメディアの違いにある。かつてメディアを支配していたテレビがせいぜい10本程度のチャンネルしか持たないのに対し、YouTubeにアップロードされている動画やYouTuberの数は数えきれない程無数にある。YouTubeを通して伝達される情報は、たとえ再生回数が数億回程度あったとしても、テレビで伝達される情報のように「知っていて当然である」とはならない。人気の動画はあくまでも「知っている人は多いが、知らなくてもよい」のである。

 従って、YouTube のように享受できるコンテンツの数が増えれば増えるほど、そのメディアを通して伝達されるコンテンツの普及度は、相対的に下がっていくのである。つまり、情報伝達デバイスの可能性が拡大すればするほど、そこで伝達される一つ一つの情報が広く波及していく可能性は狭まっていく。かつてのテレビ文化では、テレビというプラットフォームと番組というコンテンツには密接な結びつきがあったが、YouTubeのような現代のプラットフォームは基本的にそこに属する動画コンテンツと直接的な関わりは持たない。一つのプラットフォームで享受しうるコンテンツが増えれば増えるほど、プラットフォームとコンテンツの分離は加速していく。

 そしてこの傾向こそが、現代の若者文化をかつてのそれとは異質なものとして、特徴づけているのである。現代の若者文化を一言で言えば、それは「サブスク文化」である。コンテンツはYouTube や映画・音楽のサブスクといった巨大プラットフォームによって享受され、そこでは全てがただ相対的に有名であるに過ぎず、どれもこれも「知っていてもいいし、知らなくてもいい」のである。

 当然、かつての大衆のように、飲み会の場で共通の話題として取り上げることのできるような文化コンテンツは極端に少なくなる。誰が何が好きかは全て個人の自由であり、「知っていて当然である」ような話題が存在しない以上、もはや身近な人間関係以外の世間話は不可能である。見ず知らずの人達との飲み会や合コンのようなものは、今後も減少していくであろう。代わりに台頭していくのが、お互いの趣味嗜好が共有できる、マッチングアプリなのかもしれない。