安倍晋三元首相襲撃事件について

 先週の金曜日、安倍晋三氏が暗殺された。

 衝撃以外の何者でもなかった。事件直後は一体何故こんなことになったのだろうと考えた。

 私の中で、犯人像のイメージには二つの仮説があった。一つは、最近よく電車で暴れているタイプのいわゆる「無敵の人」、つまり無差別な、しかし話題性を狙った愉快犯。もう一つは、元自衛隊ということからして、三島由紀夫北一輝の思想的洗礼を受けた極右的政治犯。どちらにせよ、大変なことになったと思った。

 その後、さらに私が危惧していたことが引き続いて起こった。有名な現代芸術家がSNSで、あろうことか今まで安倍政権に批判的だった人々のこれまでの言論を責め始めたのだ。

 今にして思えば、この時点でもう歯止めが効かなくなっていたように思う。

 言論人としてはあるまじき発言だと思った。もしも因果関係として、安倍政権に批判的な人達による誹謗中傷が今回の事件の遠因だとしても、容疑者に殺害の責任があることは変わらない。そもそも因果関係から責任の所在を考えるのは無理がある。存在の論理と当為の論理は違う。因果関係に従えば、自由意志というものはフィクションで、全ての殺人においてその原因は犯人の周りの環境に帰することになるだろう。原因と責任は混同してはいけない。たとえ自由意志がフィクションだとしても、基本的には犯罪の責任は犯罪を行った主体にある。だから、誹謗中傷が今回の事件の遠因だったとしても、殺人は殺人を行った本人に責任があり、誹謗中傷を行った人達はその誹謗中傷において責任があるのだ。殺人に繋がるから誹謗中傷は悪なのではない。殺人は殺人として悪であり、誹謗中傷は誹謗中傷として悪なのだ。これが近代社会の基本的な論理ではなかろうか。最近の自称知識人とやらは、こんなことも分からないでどうしたものかと思った。丸山眞男がかつて述べたような「前近代と超近代の融合」がそこにあるように感じた。

 

 とにかく因果関係で結びつけてはならない。それは必ず感情論に堕する。そして必ず、何らかの属性を有する人達への攻撃に繋がる。それでは私達は今回の凶悪な事件を克服したとは言えないと思う。

 

 某ネット掲示板の創設者は、彼自身が作り出した言葉「無敵の人」の概念でもって、今回の事件を捉えていた。私の最初の仮説にも当て嵌まっており、かなりの共感をもって彼の話を聞くことが出来たが、今回の犯人がどの程度この概念に妥当するかは検討の余地がある。今までの「無敵の人」達に比べれば、遥かに知的で計画的な犯行だからだ。とにかく、彼は某芸術家のような安易な発言はしなかった。この犯行の遠因を社会全体に求め、我々全員の問題として捉えようとしていた。私も、この路線が、疑問の余地はあるものの、一番適切だと思っていた。

 

 しかし、参議院選挙の日に、再びまずいことが起きた。某ネット動画配信サイトの参議院選挙特番で、社民党の福島氏が自民党と某宗教団体の問題を取り上げたのだ。それ自体は悪くない。殺人は殺人として裁き、政教分離の問題もそういう問題として対処していけばいいのだ。今回の事件で、自民党と某宗教団体の関係が深いことが明らかになった以上、政治においてこの問題に向き合わねばならないのは当然だろう。私自身、福島氏の発言も当然と思った。

 問題はその直後である。福島氏との対話が終わった後、某言論人が急に顔を真っ赤にして、福島氏を非難し始めたのだ。彼女が、テロを正当化していると言い始め、周りの参加者もしきりにそれに同調した。

 実は、私もこの言い分は分からなくもない。何度でも繰り返すが、殺人の主体に殺人の責任がある。誹謗中傷だろうが宗教団体だろうが、それらの遠因に殺人の責任を帰してはいけない。それが特定の人々の攻撃に繋がりかねないからだ。しかし、某自称哲学者は福島氏との対話の前に、「誹謗中傷に殺人の責任を帰すのは左翼の人が言うように無理があるとしても、感情論としてそういう論理を支持する人達が沢山いるのは当然で、今回はそういう点で左翼は負けた」という趣旨の発言をしていた。後で、この某自称哲学者の福島氏との対話直後の発言は、宗教団体を擁護しうるものとして、散々ネットで叩かれるが、感情論で負けたのは左翼ではなく彼の方なのではなかろうか。

 

 まず初めに、誹謗中傷が悪いということで左翼が叩かれた。次に某宗教団体との癒着が悪いということで、右翼が叩かれた。今は犯人が反安倍政権的団体に所属していたとかいないとかで、再び左翼に反撃がなされようとしている。

 

 民主主義を脅かすテロ事件は、今や敵対勢力を叩きのめすための道具に成り下がってしまった。きっかけを作ったのは某現代芸術家や某自称哲学者達だが、この応酬がいつまで続くか。

 

 もちろん、それはそれとして、宗教団体と政治の繋がりも明るみになって欲しいとは思う。

 

 ところで、この事件、まさに犯人が思い描いたように事態が展開してはいないか。私は、この犯人の知性と行動力に恐怖を禁じ得ないと共に、この事件がテロの成功体験として、現代社会に潜伏する多くの「無敵の人」達を扇動しはしないか、不安である。

 

 私は、今回の事件の犯人は、まさに類い稀な知性と行動力を持った「無敵の人」だったと思う。彼は宗教団体に恨みを持っていただけではないだろう。この宗教団体のイベントに、この国の最高権力者がビデオレターを寄せていた事実を目の当たりにして、恐らくはこの社会自体に絶望したのではないだろうか。そして彼は、恨みのある宗教団体のトップではなく、それと繋がりのある政治家を殺すことで、社会に対する無差別な復讐意識を、政治テロと結びつけてしまったのだ。彼は正真正銘、パンドラの匣を開けてしまった。

 結果、彼が目論んだ通り、某宗教団体に脚光が当たったのだ。

 それだけではない。今のメディアや政府の対応は非常にまずい。この事件の遠因となる宗教と政治の問題を、隠蔽もしくは回避しようとする意志が見え隠れするほど、彼が首相のビデオレターを見て感じたであろう絶望感、あるいは社会に対する無差別な復讐意識が、世の中に広く伝播していくのではないか。しかし勿論、まともに対処してしまってはこのテロルに成功のお墨付きを与えるも同然である。

 

 つまり、どう転んでも、このテロルは成功としか言いようがない。宗教と政治の問題を避ければ、第二、第三のテロを生む遠因となるし、これに向き合えば、彼の主張を世間が受け入れたも同然である。

 

 とはいえベターなのは後者の方だろう。彼の裁判には若干の情状酌量の余地を与え、宗教団体には今後政治との関係を絶ってもらい、テロ対策の警備は強化する。勿論、殺人の責任はきっちり取って貰い、反省を促す。こんなところだろうか。五一五事件のような形での対処が、二二六事件のような別のテロルに繋がらなければ良いが。

 感情論の応酬といい、犯人の目論み通りの世論の動きといい、心配なことだらけである。戦前のような、更なるテロルの頻発と警察権力の拡大の負のループに陥らないことを願うのみである。