強い現実主義 (3)

 ここまで説明してきた通り、自由は社会を進歩させる原動力として重要な意義を持つ。

 では自由とは一体何なのか。

 いかなる自由が、最も良い形で社会を漸進的に進歩させうるのか。自由主義が政治の舞台に登場して以来、多くの論客がこの問いに魅せられ、議論を尽くしてきた。「単に強制がない」という自由、「内面的な意志に基づいて行動できる」という自由、「社会全体で一丸となって一般意志を実現する」という自由、「機会が均等であり社会的正義の下に公平である」という自由、等々様々な自由論と自由の定義が議論されてきたが、果たしてどれが自由の定義として最もふさわしいだろうか。

 残念ながら、私はどの定義もふさわしくないと思う。更に言えば、全ての定義が、そもそも自由を何らかの形で定義しようとする、その試み自体において、誤っていたのではないかと思うのである。はっきり述べると、自由を何らかの形で定義しようとする試み自体が、常に、自由主義を全くもって別の何かに作り替えてしまっていたのではないか、と私は考えるのである。

 何故ならば、自由は、理想ではなく理念であるからだ。

 もし、自由が何らかの状態として指し示すことが出来るならば、自由主義とはその状態を理想として、そこに邁進していく理想主義の一つとならざるを得ない。しかし、私はこの議論の始めに、自由主義を「強い現実主義」として定式化したはずだ。自由主義が理想主義ではない以上、自由もまた理想ではない。そうである以上、自由を何らかの状態として厳密に設定する訳にはいかないだろう。

 そもそも、我々の住む社会には既に今も自由は少なからず存在している。我々は不自由を感じることもあるが、自由を感じることもある。一般的に、自由ではないと考えられている社会においても、人々は部分的には僅かながら自由を持っている。人間をロボットと同じように完璧に制御することなど不可能である。例え部分的に、人間の行動をある程度統制下に置くことが可能でも、完全に不自由な状態というものを実現するのは不可能ではないか。そして、完全な不自由が存在しない以上、完全な自由という状態もまた存在しないのではないか。もし存在するとして、そのような状態にある社会を、何か具体的に想像できる人が一人でもいるだろうか。完全な自由が何であるかを想像し得ない以上、自由がいかなる状態であるかも厳密に定義することは不可能である。自由は、定義するにはあまりにも曖昧すぎる概念である。

 自由は、定義した上で議論されるような概念ではないのだ。それは、社会とは何であるかを定義した上で、社会の議論を行うことと全く同じ過ちにある。我々は社会の複雑さから言って、社会とは何であるかを完璧に知ることなど出来ない。同じように、社会をより良い方向に進歩させていく原動力としての自由が、厳密にどのような状態であるかを知ることなど出来ない。それは、すなわち社会はいかにすれば進歩するかを完璧に知っていると主張するようなものである。その態度は「現実主義」としての自由主義の信条に反している。

  では我々は、自由について一言も議論できないかと言うとそうではない。我々は普段から、厳密に定義されていない種々様々な概念を用いて日常会話を行っている。多くの曖昧な言葉がそうであるように、我々は自由が厳密に何であるかを定義できなくても、自由という概念がどのようなものであるかをある程度了解した上で、それを用いることができるはずだ。社会とは何であるかを定義することができなくても、我々はいかにして社会をより良いものにしていくかを議論することができる。同じように、自由についても議論することができるのではないか。

 つまり、自由は理想ではなく理念である。それは定義するものではなく、今この現状において、どの方向に向かって前進していくかを判断するための指針である。自由は、何か絶対的な概念ではなく、相対的な指標である。今の現在の社会と、これから変革していく社会のどちらがより自由であるか、そういう形の判断においてこそ、自由という概念は意義を持つ。今ある社会が、完全な自由な社会に比べて、どの程度不自由であるか、などと評価することはできない。今ある社会より、より良い社会がどのような点において、より自由であると言えるのか、そういう議論においてのみ、自由という概念は相対的な評価の基準として意義を持ちうるのである。

 従って、自由主義の中心概念である自由とは、理想ではなく理念である。「強い現実主義」としての自由主義は、理想は持たないが、理念を持つ。それが自由なのである。

 それゆえ、自由を何らかの形で定義しようとする試みは、常に失敗に帰してきたのである。そしてこの自由を何らかの状態として定義する試みは、自由という概念を曖昧な理想として標榜することに繋がるため、本来「強い現実主義」であるはずの自由主義を、その全く対極の「弱い理想主義」に引き下げてしまうのである。これこそが、まさに自由主義が、近代において最も社会に影響を与えたイデオロギーであるにも関わらず、今現在最も存在感の薄い曖昧なイデオロギーに堕してしまった最大の理由である。自由とは何であるか、という不毛な議論に明け暮れ、そこで提出された様々な定義のどれかに固執する形で、自由主義者は分裂し、結局何が自由なのか誰にも分からないまま、自由主義自体が文明から没落していった。今、社会を進歩させる原動力としての自由と、その自由を至上の価値として保持する自由主義復権させるためには、これまでのこの議論に終止符を打ち、改めて自由という概念が、理想ではなく理念であることを、再確認しなければならない。

 ここで改めて、「強い現実主義」の基本テーゼに立ち返って、考え直す必要がある。


「常に疑いを持ち警戒せよ。しかしそこに立ち止まらず、前に進み続けることを試みよ」。


 我々は、全知全能でもなければ、聖人君子でもない。我々が保持する情報は、いつも不完全であり不確かであり、偏見によって曇らされており、しかも我々の心持ちも常に利己心と虚栄心に満ちており、その傲慢さを抑えるところを知らない。そのような人間で我々が社会を何らかの設計に基づいて合理的に改良することなどできないし、またそのために権力を独占するなど危険極まりないのである。従って、社会全体に抑制と均衡のバランスを作り出し、個々人の利己的な意図による相互協力によってその社会の自己組織的な進歩を作り出すための必要条件として、自由という理念は要請されるのである。すなわち、「強い現実主義」は、理念として自由という概念を要請する。従って真の意味での「強い現実主義」は自由主義なのである。そしてここで要請される理念こそ、まさに真の意味での自由なのである。

 つまり自由とは、社会をより良いものへと進歩させる原動力として、我々一人一人が原理的に保持するものであり、健全な懐疑精神に基づいて、多様な価値と考え方を有する個々人の相互協力によって漸進的に進歩する社会に必要不可欠な理念である。従って、「強い現実主義」としての自由主義こそ、真の意味での自由主義であり、その自由主義の中心概念としてこそ、自由という概念は真の意味での自由なのである。それこそが、理念としての自由である。従って自由主義者は、社会変革の真っ只中で、自由とは何かを常に模索し続けねばならない。そして、その不断の努力においてこそ、自由は、その意義を光輝かせる。自由を求める努力それ自体がまさに自由の所産なのである。

 これこそが「『強い現実主義』としての自由主義」論の核心である。

 

 

     *** *** ***

 

 

 何度も繰り返した述べた通り、自由主義において、自由は理想ではなく理念である。従って、自由主義者は何らかの理想に向かって邁進するのではなく、この自由という理念がより深く浸透するように、社会のルールを改良していくことを試みる。つまり、自由主義者は、基本的には「立法」という手段を用いて社会変革を試みる。これが自由主義が歴史的には、法・立法そして立憲主義といった概念と切っても切れない関係にある理由である。

 ところで、自由主義に基づく「立法」は次の三つの存在を対象とする。

 まず第一に個人である。法の下に平等な存在としての個人概念が実在的な意義を有し、その上で個人が皆平等に自由を行使しうる権利を持たなければ、自由という概念は意義を持たないからである。

 しかし、それだけでは不十分である。そもそもの話、自由主義社会は自給自足の独立自営農民の寄せ集めではなく、専門性を有する個々人の力を集結した分業体制である。個々人の利己的な意図に基づく相互協力があってこそ、自由はその効力を発揮する。そこで、第二の概念、企業が重要となる。

 更に、これら二つの概念を支える基盤としての法に、実際的な効力を与えるために、第三の概念、政府が必要となる。しかし、政府が効力を保持する以上、より直接的に言えば、ある種の暴力装置である以上、これを抑制するためにもまた法による統治システムが必要なのである。

 以上、法の適用対象となる三つの代表的存在をざっと紹介したが、自由主義の内実は、まさにこの三つの存在、個人・企業・政府に対して、いかなる原理・原則が要求されねばならないのかを説明するものとなる。従って、個人・企業・政府はそういう意味で、自由主義の三つの基本概念となる。自由主義の内実は、この個人・企業・政府という三つの基本概念の在り方と相互の関係性を巡って、議論されるものなのである。