強い現実主義 (1)

 現在、日本政治の停滞は火を見るより明らかである。人口減少や物価上昇、安全保障などの側面で様々な困難を抱えているにも関わらず、その解決には未だ多くの障害が付き纏い、有効な政策の実施は行われていない。

 政治の転換が必要である。

 政治の転換の鍵をにぎるのは、何よりも選挙における国民の投票である。しかし、投票率も先進諸国の中では異様に低い。しかも、将来この国が直面するであろう数多くの国難に、直接的に影響を受けるところの若者において、この投票率は最も低いのである。これこそ我が国最大の根本的危機である。

 では、なぜ若者の投票率は低いのか。

 理由は極めてシンプルだと思う。すなわち、どこに投票すればいいのか分からないからだ。

 我々はいかにして自信の投票先を決定すれば良いのだろうか。複雑な政治的諸問題に対して様々な意見が飛び交う中、それらの専門家ではない一般の国民は、時間も情報も限られた中で、いかなる投票行動を最善とするのか、判断しなければならない。しかし、これこそが投票行動において最も難しい作業であり、日本において投票率が極めて低い、その根本原因である。

 日本は民主主義の国である。しかし、その大本の国民が、特に若者が、どう投票すればいいのか分からないのだ。これこそが政治の転換に立ち塞がる、最大の障害なのだ。

 投票の基準となるものでまず一般に考えられるのは、何よりもまず政治家あるいは政党の掲げる政策であろう。これらの政策が選挙で勝利した後に本当に実行されるかどうかという問題もあるが、それはさておき、まずはどの政策が良いもので、あるいは悪いものであるかを判断しなければならない。しかし、多くの有権者は、既にこの時点でかなりの困難を感じるのではないだろうか。政策の良し悪しを適切に評価するには、それなりにその政策に関わる専門知識や情報を集めなければならない。また、政策の分析と検討による投票行動の判断がある程度の有効性を持つとしても、それにかかる労力や不確実性を考慮するならば、やはり政策のみで投票先を決めるというのはハードルが高い。

 我々はある程度は政策を検討しながら政治を考える必要があるが、一方で、投票行動の指針となる何らかの政治信条を土台として、政治を考えていかねばならない。また、そういう判断基準となる信条を持ち合わせていることが政策の検討の助けにもなる。

 ではいかなる政治信条、すなわち政治的イデオロギーを保持するべきか。

 その答えは当然、各々のイデオロギーを有する人によって異なる。従ってイデオロギーを持たない人間に特定のイデオロギーを強要する形で、議論を行うわけにはいかない。それは価値観の押し付けであろう。しかし、だからといって、イデオロギーの議論が全く不可能という訳でもない。イデオロギーを押し付けることは出来ないにしても、議論に参加する人間が、自身の持つイデオロギーを何故信じているのかを説明する形で議論をすることは可能である。つまり、自分が持つイデオロギーを何故自分は良いと思うのか、という形でそのイデオロギーの議論は出来る。

 私はこの形でもって、私が持つイデオロギーの議論を行いたいと思う。

 私は、いかなる政治的イデオロギーを保持しているか。私は、自由主義、いわゆるリベラリズムと呼ばれるイデオロギーを保持している。私は自由主義者である。

 しかし、自由主義者の場合、このイデオロギーの議論には更にもう一つの困難が付き纏う。

 すなわち、自由主義とは何か。多くの政治的立場の異なる人々が皆自由を価値として信奉し、また数多くの自由主義者を自認している人々の間で様々な意見の対立が見られる中、本当の意味での自由主義とは何であるのか。それは本当に政治行動の判断に資するような政治信条であるのか、議論しなければならない。

 自由主義とは何か。後述する説明の枠組みに則って言えば、真の意味での自由主義は、「強い現実主義」である。また、真の意味での「強い現実主義」こそが自由主義なのである。これこそが私がこの拙文で主張したいことの全てである。私は自由主義を「強い現実主義」として信奉しており、またその理由もこの「強い現実主義」の説明で明らかになると思う。

 

 

 

 「強い現実主義」とは何か。それは政治的イデオロギーの種類の一つのことである。そこでまず、この議論の前提となる政治的イデオロギーの分類法を提示したい。

 政治的イデオロギーには、自由主義を始めとして、共産主義保守主義全体主義新自由主義などの様々なイデオロギーがある。これらの政治的イデオロギーは、その形態によって、以下の四つに分類できる。

 第一に、「強い理想主義」がある。絶対的な理想を掲げ、それに向かって強力かつ急進的な政治行動を実行していくイデオロギーがそれである。主流の共産主義全体主義などがこれに属する。しかし、この形態のイデオロギーは異なる価値観や属性の持ち主を抑圧し、非民主的な形で現実に即していない政策を実行し、社会を混乱に陥れてしまう弊害がある。

 「強い理想主義」をイデオロギーとして有する政治結社は、優秀なリーダーによって率いられている場合、恐るべき実行力を発揮する。レーニンムッソリーニ毛沢東などがその典型例で、彼らは自らの理想を実現する為、その類稀な知性と忍耐力、カリスマ性でもって戦略的に行動し、時には現実的妥協を引き受けながらも政治権力の獲得に邁進する。彼らの天才は、本来実現不可能であるはずの理想を、その強い実行力でもって、多くの人間に実現可能であるかのように錯覚させてしまう点にある。「強い理想主義」に魅せられた人々は、こういったカリスマ的リーダーを崇拝し、理想から逆算して現実に何を為すべきかを論理的に計画立て、実行に移す。イデオロギーが現実の変革に直接的に影響を与える点において、本流の共産主義全体主義は「強い理想主義」に分類される。

 第二に「弱い現実主義」がある。保守主義がこれである。共産主義全体主義などの強権的なやり方を忌み嫌い、改革や革命を嫌悪し、現状維持を好み、社会の矛盾や問題に対して受動的な態度を取って我慢する、そういうイデオロギーである。しかし社会における現状維持の志向は、社会の衰退に帰結する。現代日本の社会状況がまさにこの具体例であろう。問題をただひたすら先延ばしにすることで、状況を更に悪化させ、ただ絶望して苦難を我慢するだけのイデオロギーに、一体どんな意義があるだろうか。彼らのイデオロギーは現実の変革には全くといって言いほど影響を与えないため「弱い現実主義」に分類される。

 第三に「弱い理想主義」がある。社会民主主義的な傾向のある政治的イデオロギーがこれに属する。平和主義、平等主義的な政治、政策を志向しており、理想論に終始しているきらいがある。強権的な政治行動を嫌い、比較的穏健な政治行動を志向する点では「弱い現実主義」と共通している。しかし、旧来の価値観よりも先進的な価値観を優先し、その普及と発展を理想として掲げている点においては進歩的と言える。だが彼らは「強い理想主義」とは異なり、ただ理想を掲げるだけで満足する。すなわち、理想を掲げることそれ自体が良識と理性を有する市民の説得に繋がると思い、旧態依然として変化しない社会と前時代的な価値に囚われた民衆を侮蔑する。現代においては、SNSにおける「いいね」の数を集めることで社会貢献をした気分になり、自己満足に浸り、自身の価値観に賛同しない人間をバッシングすることに明け暮れる、自称リベラルの大多数がここに属している。彼らの決定的な特徴は、ただ社会や他者を批判し侮蔑するだけで、自身は何もしない、あるいは「いいね」の数で何かした気になっている、という点にある。理想主義であるにも関わらず、その理想の実現の為の、効果的な政治行動を伴わない為、こういった政治信条は「弱い理想主義」に分類される。

 これら三つのイデオロギー「強い理想主義」「弱い現実主義」「弱い理想主義」にはある共通した特徴がある。すなわちこれらのイデオロギーは、所詮イデオロギーのためのイデオロギーであって、我々市民の生活を向上し文明の発展に資するようなイデオロギーではない、ということである。これらのイデオロギーは異なる価値や信条を侮蔑し排除することで自分達の安全圏に引き篭もり、独断的な政治判断でもって他者の意見を批判する。残念ながら、彼らは内輪で自己満足に浸り、他者を見下し排除することで分断を深刻化させるだけであり、社会の発展を阻害しているに過ぎない。

 イデオロギーのためのイデオロギーではない、社会の成員全員の幸福と文明の進歩に、真の意味で貢献しうるイデオロギーは、これら三つの形態には属さない。

 残る一つのイデオロギー形態、これこそが「強い現実主義」である。そして本来の意味での自由主義は、まさにここに分類される。「強い現実主義」は「弱い現実主義」とは異なり現状維持に満足しない。不断の進歩と改革を志向し、その為に効果的な政治政策を提案する。しかし「強い理想主義」のように強権的な方法で、現実に即しない形での政策の実行にも反対する。「強い現実主義」は、まさに現実と真摯に向き合い、より良い社会の実現に向けて現状の改革を目指す。完璧な社会ではなく、あくまでも「より良い」社会を目指す為、それは多くの市民の意志と現状を反映した漸進的な改革に直結する。市民の幸福と社会の発展のために、今どのような問題を解決する必要があるのか、またいかにして解決するべきなのかを現実に即して考察し、その実行を強力かつ迅速に行うことを志向する。

 「強い現実主義」ほど政治的に有効なイデオロギーは存在しない。それは対立する意見や権力、派閥の間でバランスを取り、巧みに政策を実行に移して社会を進歩させていくことに重点を置くため、「弱い現実主義」よりも強く、「強い理想主義」よりも現実的である。

 「強い現実主義」は現状維持の現実主義ではなく、改革と進歩の現実主義である。「強い現実主義」としての自由主義は、この現実に存在する市民の力と気概をもってして、社会の進歩を促す点にその最大の意義がある。