教養は二の次でいい

教養は二の次でいい。まずは実学を学ぶことだ。法的・経済的・心理的に自律した個人であってこそ、初めて教養はその価値を発揮する。この社会がどんな仕組みで回っていて、そこにどんな専門的知識でもって貢献していくか、それを考えるべきだ。貴族でもないくせに社会を見下して高尚な思想やら芸術を誇るのは馬鹿のすることだ。

 

確かに、自己啓発本をいくら読んだとて人生の役に立つことはない。しかし、簿記や経済学の勉強は違うと思う。古典のように時代を超えた価値を有していないとしても、この社会を生きる上では少なからず意味があるはずだ。それは勉強する以前よりはこの社会に対する見通しをクリアにしてくれるはずだ。

 

経済的に自律した個人として生きていくため、毎晩時間を削り実学の勉強に徹する人たちがいる。そして、そういう人たちを上から馬鹿にして、やれ人生だの教養だのとほざく馬鹿も、残念ながらこの国には沢山いる。福沢諭吉丸山眞男も読んだことのない自称教養人・知識人は数多い。そういう連中に限って、この世の中に対する見識をまるで持ち合わせていないから、家族や会社、国といった組織に依存するだけ依存して、あーだこーだと文句ばかり言うものだ。

 

日本の場合、個人的な価値規範の合理化まで深まった教養を持ち合わせていないのは大衆も知識人も同様だ。夏目漱石が「俳諧的」と呼び、福沢諭吉が「論語読みの論語知らず」と適切に比喩したそういう連中が、日本の近代化に決定的な悪影響を与え続けていたと思う。個人として自律せねば、という倫理規範が弱すぎて、自分のことはなるようになるもので頑張ってる奴は馬鹿だ、みたいな風潮がまかり通りすぎている。結局そういう軟弱な心持ちに合わせて、権威とされる本を選びとって読書するから考え方も偏っていく。全然総合的でも徹底的でもないただの視野狭窄が教養ということになる。これで国とか国民が進歩するはずがない。

 

あげく大衆はアカデミズムを見下すようになる。それに応じて実産業を馬鹿にする風潮が読書界の方でも高まっていく。まともに勉強が出来ないから簡単に論破されるのだが、そうすると今度は合理主義とか機械主義というものに現代社会を当て嵌めて、藁人形論法で勝った気持ちで悦に入る。科学と人文学の間にすら溝をつくり、内輪で世間を馬鹿にすることが教養だという勘違いだけが世代を超えて伝えられていくのだ。全く憤慨なり。