大衆の崩壊 (4)トートロジー的表現活動

 このような大衆になりえなかった集合体、極端かつ無個性な群れの出現は、まさに「大衆の崩壊」によって生じた最も特徴的な現象と言えるだろう。私は彼らを「仮面の軍団」と呼ぶことにしたい。ここで「仮面の軍団」が仮面をつけているという表現は、SNSにおける匿名性を象徴すると同時に、彼らが一つの集合体として互いに同調することで、失われた大衆感覚を補填しようとしていることを意味する。

 例えば、SNS上で特定のトピックについて議論しているときに、「仮面の軍団」が現れることがしばしばある。彼らは自分たちの主張を支持するために、同じような意見を持つ人々とつながり、またその意見を強化するために同調し、何らかの属性を仮面としてかぶり個性を隠す。そうすることによって、彼らの攻撃力は活性化した群衆バッタの大群のごとく強化され、彼らにとって相容れないSNS上の敵性の投稿を全て食いつぶしていくのである。

 彼らは、自分たちの信じる正義を貫徹するためには、手段を選ばない。SNS上では「仮面の軍団」によるリンチが常態化していると言える。一度彼らから敵性の存在として認定をうければ、繰り返し同じような侮蔑を帯びた攻撃を受けることとなり、彼らの拡散力の高さとその匿名性とによって、攻撃者である彼らの側が多数派であるかのような錯覚を与えられてしまう。このようなリンチ行為は、まさに「仮面の軍団」にこそ可能な犯罪的行為と言えるだろう。

 

 ところで、彼らの言動の最大の特徴は同じ「正論」を表現を変えて繰り返し表現し続ける点にあると言えるだろう。彼らは彼ら自身が「正論」と考える「正論」を繰り返し反復し、繰り返し「論破」する。このような空しいトートロージー的活動は、果たして彼らだけに固有のものだろうか。

 多くの人は、このトートロジー的な正論の押し付けを彼らの専売特許と考えるかもしれない。しかし、例えば現代の若者が多用して用いる「推し」「推し活」などの文化概念にもまた、同じようなトートロジー構造がひそかに隠れているように思われる。

 「推し」というのはある人や物、作品などを自分自身が応援し、愛する対象として選んでいることを表現する言葉である。「推し活」というのは、そのような自分が応援しているアイドルやタレント、アーティストなどの活動を支援するために行う活動のことを指し、具体的には、ライブやイベントに参加したり、CDやグッズを購入したり、SNS上で応援メッセージを投稿したりする活動のことをいう。ここに先の「仮面の軍団」達の攻撃的トートロジー表現活動と同じ類型を指摘することは出来ないだろうか。

 つまり、現代の若者が何らかのアイドルやコンテンツを「推す」時、最早それを「推す」理由は「推し活」の仲間集団にしか共有されない。彼らは彼らが「推す」対象の文化的価値を大衆感覚を土台とした批評によってではなく、「推す」ことそれ自体によって証明しようと試みている。

 本来、文化的営為や作品というものには、それに価値を見出すための、それまでの文化に対する何らかの差異や新規性があってこそ、共感や支持が生まれてくるものである。しかし、現代の「推し活」文化においては、そのコンテンツの価値は「推し」の総量によって決まるのであって、大衆感覚を土台とした批評によってではない。すなわち彼らは「推す」から「推す」のである。「推し活」文化は「あなたの感想」でしかない価値評価基準を、いわば逆手に取った形の文化活動と言える。

 「正論」のみが、失われた大衆の共通感覚を補填する唯一の対話手段である現代、大衆になり損ねた群集においては、政治においても文化においても絶対的な数の多さのみが、説得力の強さの根拠となる。トートロジー的表現活動はそのような時代の潮流の中で、情報の氾濫をさらに促進させる機能を持つ。