雑録20211211 暇になってふと思ったこと

 忙しかった仕事も一段落ついて、急に暇ができた。ここ最近は忙しすぎて、特にこれといった内的な変化や気づきは何も無かった。ただ時間だけが過ぎていった。忙しさはそういう意味で、我々の成長を妨害する要素を持っているかもしれない。忙しいとき、我々は内的には成長しない。

 とはいえ、時にはその忙しさが精神的な負担であると同時に、精神的な快活さをもたらす場合もある。自分が持っているビジョンや目標に向けて着々と物事が進んでいくのを目の当たりにするのは、やはり心地がいいものだ。夜中の静かな時間に、これからの未来を眺めつつ、これまでになした仕事を振り返っていけば、おのずと体の力が抜けて、眠りにつく。これ以上に快いことはないと思う。

 私一人の事情は、さておいて、この世の中が忙しくなっていくことは、良いことだろうか、悪いことだろうか。通常、忙しさは悪い意味で捉えられがちな概念なので、この問いにおいても、ほとんどの人は悪いことだと思うかもしれない。確か、夏目漱石か誰かの文章にも、最近は科学が発達して世の中便利になったはずなのに、我々の生活は忙しくなるばかりだ、というような文明批評があった気がする。しかし、世の中が本当に忙しくなってきた時期の、例えば高度経済成長時代の日本や、産業革命時代のアメリカには、ある種の快活さが感じられないだろうか。より豊かで幸福な社会へと、世の中が着実に進歩していくことを実感しつつ、そしてその活動に参画することは、社会的動物としての人間にとっては、幸福であるに違いない。世の中の忙しさというのは、必ずしも悪であるとは限らないと思う。

 しかし、そういう社会を準備するには、大衆レベルにおける、内面的精神的な革命が起爆剤として必要であるという仮説もまた、重要だと思う。ヴェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』であったり、夏目漱石などが説くところの「内発的開化」というのもそういう類の考え方であるように思われる。

 ところで、そういう大衆レベルでの社会的意識の変革は、どのような条件の下で発生するのか。忙しい世の中もいつまでも忙しいわけではない。皆が共通してもっていた社会像や倫理観も、時代の変化とともにバラバラになり、いつかは停滞するときが来る。そういう曖昧な時代にこそ、先人たちの積み重ねてきた価値の蓄積の上に立ち、次の内発的開化を準備することが肝要であると思う。忙しいときであっても、そういうことは忘れてはならないだろう。結局は、そういう価値の蓄積こそが、内発的開化の土壌となるのではないだろうか。時代が停滞したときに、どういう価値の蓄積を、社会として保持しているか。そこのあたりに、内発的開化が可能か否かの分岐点がある気がする。忙しい快活な日々の生活において、多くの人がそのことを忘却しつつあるのならば、やはり忙しさは危険であろう。結局それで、忙しさは、社会にとって良いのだろうか、悪いのだろうか....。

 私は、暇になって、ふとそういうことを考えた。目を移せば、私の机の上には、聖書、論語、自省録、孟子ヒルティの幸福論、韓非子菜根譚が立ち並んでいる。こういう古典の累積を一瞥して、私は少し安心する。忙しくても、自分は大丈夫だ、と思うことが出来る。しかし、それもまた危険な気がする。こういう価値の蓄積の上に自分の生活があるとして、それで安心してあぐらをかいているようでは、先人たちの試行と努力の蓄積により発展してきた文明社会の利便性に依存して、肝心なことを忘却しつつある人達と、何ら変わらないのではあるまいか。暇になって、ふとそういうことを考えた。