雑録20211205 世の中の不幸について

 最近あった自分の内的変化で一番新しいものは、世の中の不幸の原因の捉え方についてのそれである。それについて書こう。

 一般的に言って、世の中の不幸というものは、大体以下の二種類の原因によって生じていると考えられる。

 まず一つ目は「性格が悪い人が多いから」というものである。これは至極単純だ。何か悪いことがあれば、それを政治家のせいにしたり外国人のせいにしたりするのはどの国でもよくあることだろう。人は自分の身にふりかかる災難を他人のせいにしがちだ。世の中の不幸というものも、そういう考え方を延長して、誰かしらの悪意によってもたらされていると考えることができる。

 しかし、多くの賢い人達は、あまりこういった考え方に賛同しない。彼らは基本的に二つ目の見解「頭が悪い人が多いから」という立場に立つ。彼らはこう考える。我々の社会システムというものはよく出来ている。悪いことをすれば警察に捕まるし、誰かに損害を与えれば裁判で訴えられるリスクもある。一方でビジネスにおける最大の富は信用であるし、社会人としての能力において人望や協調性といった要素は極めて重要となる。世界史における偉人たちの努力と熟慮の蓄積の上に形成された我々の法治システムを俯瞰すれば、賢い悪魔ほどその態度は天使のそれに似ているはずだという信念はおのずと生まれてくる。合理的な人間であれば、内面の性格の良し悪しには関係なく、外面的には善人として振舞おうとするはずだ。当然、悪事を犯すことも避けるだろう。だとすれば、社会悪の原因としての一つ目の仮設は否定されることになる。性格が悪くても、賢ければ悪事はなさない。さらに言えば、もし社会を構成する成員の全員が本当に賢ければ、誰も悪事は犯さないはずだ。従って、今現在、社会に様々な悪がはびこっている原因は、性格が悪い人が多いからではなく、頭が悪い人が多いからだと考えられるだろう。確かにこの考えには一理ある。宗教戦争全体主義国家における抑圧のケースのように、悪は時として、悪人の悪意よりも善人の熱心さによって引き起こされる場合がある。人々がもう少し賢明で、自分たちを冷静に客観視することが出来れば、こういった悪は回避することが出来るだろう。

 二つ目の仮設に立つ場合、さらに世の中の不幸に対する対策は、より具体的で鮮明なものとして我々の思考に現れてくる。それは啓蒙だ。悪を犯すことの愚かさを人々が学び、きちんと認識すれば世の中の不幸は解消されてなくなるはずだ。教育の機会平等、民衆への啓蒙の普及こそ、賢いエリート達の最重要の社会的使命となる。

 私もつい最近まで、そういう考え方が支配的だった。合理的であることこそが善であり、人々を非合理的で迷信的な偏見から解放すれば、世の中は良くなる。大切なのはそのための教育だ、と。この考え方は、自尊心を高めてくれるし、ぶっちゃけて言えば、世の中の多くの人を見下すことが出来るので、精神的にも快楽となる。

 だが、ここ数日、私には別の考え方が生まれつつある。世の中の不幸が全然なくならないどころか、むしろ大きくなり増えつつあるのは(この認識は間違っているかもしれないがこの後の議論にはあまり関係ない)、シンプルに、やはり性格が悪い人が多いからではないだろうか。すなわち私はある意味で一つ目の仮設に戻りつつある。

 なぜか。今はまだ明確には答えられないが、ぼんやりと考えていることは「忍耐強さ」というものもまた、善の要素の一つではないかということである。つまり、いくら賢く、悪事を為すことが愚かであると分かっていても、「忍耐強さ」の徳がない人は、実際その悪を回避することは出来ないのではないか。自分が刹那的な快楽のために悪を為すことを我慢できない結果、人は直接その悪を犯すことはないにしても、何らかのより軽い悪でもってその我慢の解消を代替しようとするのではないか。本当は何一つ悪を犯さないことが最大の幸福であると認識していても、それを実行するだけの忍耐強さを保持している人のみしかその幸福は得られない。ほとんどの人は耐えることが出来ず、何らかの軽い、些細な悪を撒き散らすことによって、刹那的な快楽と永続的な幸福との間に妥協を図ろうとする。それが集積して社会悪は生まれているのではないか。この考察はこれから先、より厳密なものにしていくつもりだ。

 もう一つ、私が二つ目の仮設に若干の疑念を抱く理由は、「善が幸福を導く」という考えは、翻って「幸福を導く手段は何であれ、善である」という考えをもたらしはしないか、ということである。幸福が何であるかという吟味が欠けている場合、この命題は単なる快楽のために用いられた悪事が、幸福に至る手段としての必要悪と見なされかねないのではないかと思われる。基本的に私は「善が幸福を導く」という信念には賛成であるが、この信念の実行には、そもそも幸福とは何であるかという吟味が欠かせないと思う。しかし、それは今私が考察しようとしていることより、はるかに難しいように思われる。

 そんなこんなで、今の私の世の中の不幸の原因に対する捉え方は若干変化しつつある。しかし、私は世の中の人々の多くが、性格が悪いなどと思っているわけではない。ただ私たちは、日ごろから、あまり意識しない形で忍耐力の弱さのために、様々な悪事を撒き散らしているのではないか、と考えているのである。

 また従って、世の中の不幸は根本的には改善されえない、とも考えてはいない。だとすれば忍耐力はいかにして身につくのか。私は、最近「趣味」という概念が、その答えの鍵を握っているのではないかと考えているのだが、それはまた、その考えがより明瞭になったときに書きたい。