大衆の崩壊 (2) サブスク文化

 「大衆の崩壊」という仮説は、中高年以上の人たちにはいまいち納得がいかないかもしれないが、現代の若者文化には顕著に見て取ることができる。

 例えば、かつての「アイドル」と言えば日本なら松田聖子中森明菜、海外ならマイケル・ジャクソンやマドンナの名前を誰でも挙げることができた。しかし、今の若者世代のアイドルで、そのようなかつてのアイドルに匹敵する人名を挙げることはかなり難しいと思われる。無論、近年でも橋本環奈やテイラー・スウィフトなどほとんど誰でも知っている有名人がいない訳ではない。しかし、このような現代のアイドルは、かつてのそれと同じように「知っていて当然である」という枠組みにはもはや属してはいない。

 若者にとって、このような有名アイドルは単にテレビでよく見る芸能人の一人に過ぎず、YouTubeでよく見るYouTuberと同じ次元において、相対的に有名であるに過ぎない。現代のアイドルも、かつてのアイドルと同じように有名であり影響力も絶大ではあるが、テレビというメディアが支配的ではない現代において、それは他の世代が一度も名前を聞いたことのないような有名YouTuber達と同じ次元でのことなのである。

 ところで、この若者に人気のYouTuber達の活動は、直接彼らのYouTube動画に主体的にアクセスしない限りは、実際に視聴することはできない。従って、このYouTuber達のような現代の有名人は、もはや「知っていて当然である」という枠組みには属さず、あくまでも「知っている人は多いが、知らなくてもよい」のである。そして、現代のアイドル達も所詮は後者の枠組みに属する、相対的な有名人なのである。

 近年の若者文化とこれまでの若者文化の決定的な差異は、ここまで述べてきたように、情報を発信するメディアの違いにある。かつてメディアを支配していたテレビがせいぜい10本程度のチャンネルしか持たないのに対し、YouTubeにアップロードされている動画やYouTuberの数は数えきれない程無数にある。YouTubeを通して伝達される情報は、たとえ再生回数が数億回程度あったとしても、テレビで伝達される情報のように「知っていて当然である」とはならない。人気の動画はあくまでも「知っている人は多いが、知らなくてもよい」のである。

 従って、YouTube のように享受できるコンテンツの数が増えれば増えるほど、そのメディアを通して伝達されるコンテンツの普及度は、相対的に下がっていくのである。つまり、情報伝達デバイスの可能性が拡大すればするほど、そこで伝達される一つ一つの情報が広く波及していく可能性は狭まっていく。かつてのテレビ文化では、テレビというプラットフォームと番組というコンテンツには密接な結びつきがあったが、YouTubeのような現代のプラットフォームは基本的にそこに属する動画コンテンツと直接的な関わりは持たない。一つのプラットフォームで享受しうるコンテンツが増えれば増えるほど、プラットフォームとコンテンツの分離は加速していく。

 そしてこの傾向こそが、現代の若者文化をかつてのそれとは異質なものとして、特徴づけているのである。現代の若者文化を一言で言えば、それは「サブスク文化」である。コンテンツはYouTube や映画・音楽のサブスクといった巨大プラットフォームによって享受され、そこでは全てがただ相対的に有名であるに過ぎず、どれもこれも「知っていてもいいし、知らなくてもいい」のである。

 当然、かつての大衆のように、飲み会の場で共通の話題として取り上げることのできるような文化コンテンツは極端に少なくなる。誰が何が好きかは全て個人の自由であり、「知っていて当然である」ような話題が存在しない以上、もはや身近な人間関係以外の世間話は不可能である。見ず知らずの人達との飲み会や合コンのようなものは、今後も減少していくであろう。代わりに台頭していくのが、お互いの趣味嗜好が共有できる、マッチングアプリなのかもしれない。

 

 

大衆の崩壊 (1) ポピュリズム

 近年、政治の世界でポピュリズムなる語が頻繁に取り上げられている。ポピュリズムとは一般に、エリート的行政機構には反映されにくい、有権者多数の社会的不満が原動力となって生じる、無軌道で衝動的な政治運動を指す。トランプ元大統領の強烈な個性によって、この言葉は瞬く間に周知のものとなり、いまやこれを取り上げて議論すること自体、やや時代遅れ気味になりつつある。

 

 このポピュリズムという言葉は、知識人・教養人界隈では哲学者オルデガの著作『大衆の反逆』と結びつけてイメージされ議論されることが多い。しかし、現代のポピュリズムは本当に大衆の反逆として受け止めるべきなのだろうか。むしろこれはインターネットが社会的影響力を持ち始めて以降、常に進行し続けてきた「大衆の崩壊」とでもいうべき傾向に由来する社会的現象なのではないか。

 

 ポピュリズムの主体となりそれを推し進める人達と、逆にそれに危機感を覚え対抗姿勢を打ち出していく人達には、一つの共通した誤謬があるように思われる。すなわち彼らは、未だにこの現代社会の基盤として「大衆感覚」とでもいうべきものが存在し続けていることを暗黙の前提にしている。しかし事態ははるかに早く進行しているのだ。すなわち、すでに「大衆感覚」は消滅している。私達の当たり前が、どこまで当たり前なのか、もはや誰にも検討がつかない。それは一般社会全体に通用するものかもしれないが、もしかしたら隣の家の人にも理解されえないものかもしれない。私たちにそれを判断する術は、もはやどこにもない。

 一言で言えば、私たちは何の配慮も無しに、常識を前提として他人と世間話をすることが難しくなった。気心の知れた友人とであれば何でも話し合うことができるが、ご近所さんとか会社の同僚とかとはそうはいかない。相手は国粋主義者かもしれないし、過激な平等主義者かもしれない。迂闊に世間話を語りかけることは危険なのだ。安全なのは天気の話くらいである。

 その現状に未だ気づいていない人達が、自分たちらが当たり前だと認識する価値規範に公然と反対する集団の勃興を目の当たりにすることで、強いショックと相当な不安を覚えることは想像に難くない。世間話を振っただけのはずなのに、強い眼差しで睨み返される、あるいは普段は優しい知人が、顔を熱くして歴史問題について猛烈な反論を繰り広げる、などのショッキングな光景は、現代においてこそ特徴的な事象ではなかろうか。

 

 話を戻すと、ポピュリズムという現象は、本質となる時代傾向の派生に過ぎない。その本質とは「大衆の崩壊」である。従って、現代のポピュリズムは決して「大衆の反逆」ではない。むしろ滅びゆく大衆(であったはずの人々)の最後の足掻きである。これは近代における高度消費社会や大衆文化の形成とは真逆の傾向を有しているのである。すなわち現代における様々な社会現象は、決して近代大衆社会で繰り返し生じえた、愚民的イメージを伴う社会現象のアナロジーとして捉えてはならない。その逆の傾向を本質とする、派生現象と見做さなければならないのである。

 この文章ではポピュリズムを例にとり、近代や中世とは異なる、現代独自の時代傾向として「大衆の崩壊」という概念を取り上げた。今後私たちの時代と社会とが、この本質的時代傾向によってどのように変質していくか、追って記述していくつもりである。

 

 

 

強い現実主義 (3)

 ここまで説明してきた通り、自由は社会を進歩させる原動力として重要な意義を持つ。

 では自由とは一体何なのか。

 いかなる自由が、最も良い形で社会を漸進的に進歩させうるのか。自由主義が政治の舞台に登場して以来、多くの論客がこの問いに魅せられ、議論を尽くしてきた。「単に強制がない」という自由、「内面的な意志に基づいて行動できる」という自由、「社会全体で一丸となって一般意志を実現する」という自由、「機会が均等であり社会的正義の下に公平である」という自由、等々様々な自由論と自由の定義が議論されてきたが、果たしてどれが自由の定義として最もふさわしいだろうか。

 残念ながら、私はどの定義もふさわしくないと思う。更に言えば、全ての定義が、そもそも自由を何らかの形で定義しようとする、その試み自体において、誤っていたのではないかと思うのである。はっきり述べると、自由を何らかの形で定義しようとする試み自体が、常に、自由主義を全くもって別の何かに作り替えてしまっていたのではないか、と私は考えるのである。

 何故ならば、自由は、理想ではなく理念であるからだ。

 もし、自由が何らかの状態として指し示すことが出来るならば、自由主義とはその状態を理想として、そこに邁進していく理想主義の一つとならざるを得ない。しかし、私はこの議論の始めに、自由主義を「強い現実主義」として定式化したはずだ。自由主義が理想主義ではない以上、自由もまた理想ではない。そうである以上、自由を何らかの状態として厳密に設定する訳にはいかないだろう。

 そもそも、我々の住む社会には既に今も自由は少なからず存在している。我々は不自由を感じることもあるが、自由を感じることもある。一般的に、自由ではないと考えられている社会においても、人々は部分的には僅かながら自由を持っている。人間をロボットと同じように完璧に制御することなど不可能である。例え部分的に、人間の行動をある程度統制下に置くことが可能でも、完全に不自由な状態というものを実現するのは不可能ではないか。そして、完全な不自由が存在しない以上、完全な自由という状態もまた存在しないのではないか。もし存在するとして、そのような状態にある社会を、何か具体的に想像できる人が一人でもいるだろうか。完全な自由が何であるかを想像し得ない以上、自由がいかなる状態であるかも厳密に定義することは不可能である。自由は、定義するにはあまりにも曖昧すぎる概念である。

 自由は、定義した上で議論されるような概念ではないのだ。それは、社会とは何であるかを定義した上で、社会の議論を行うことと全く同じ過ちにある。我々は社会の複雑さから言って、社会とは何であるかを完璧に知ることなど出来ない。同じように、社会をより良い方向に進歩させていく原動力としての自由が、厳密にどのような状態であるかを知ることなど出来ない。それは、すなわち社会はいかにすれば進歩するかを完璧に知っていると主張するようなものである。その態度は「現実主義」としての自由主義の信条に反している。

  では我々は、自由について一言も議論できないかと言うとそうではない。我々は普段から、厳密に定義されていない種々様々な概念を用いて日常会話を行っている。多くの曖昧な言葉がそうであるように、我々は自由が厳密に何であるかを定義できなくても、自由という概念がどのようなものであるかをある程度了解した上で、それを用いることができるはずだ。社会とは何であるかを定義することができなくても、我々はいかにして社会をより良いものにしていくかを議論することができる。同じように、自由についても議論することができるのではないか。

 つまり、自由は理想ではなく理念である。それは定義するものではなく、今この現状において、どの方向に向かって前進していくかを判断するための指針である。自由は、何か絶対的な概念ではなく、相対的な指標である。今の現在の社会と、これから変革していく社会のどちらがより自由であるか、そういう形の判断においてこそ、自由という概念は意義を持つ。今ある社会が、完全な自由な社会に比べて、どの程度不自由であるか、などと評価することはできない。今ある社会より、より良い社会がどのような点において、より自由であると言えるのか、そういう議論においてのみ、自由という概念は相対的な評価の基準として意義を持ちうるのである。

 従って、自由主義の中心概念である自由とは、理想ではなく理念である。「強い現実主義」としての自由主義は、理想は持たないが、理念を持つ。それが自由なのである。

 それゆえ、自由を何らかの形で定義しようとする試みは、常に失敗に帰してきたのである。そしてこの自由を何らかの状態として定義する試みは、自由という概念を曖昧な理想として標榜することに繋がるため、本来「強い現実主義」であるはずの自由主義を、その全く対極の「弱い理想主義」に引き下げてしまうのである。これこそが、まさに自由主義が、近代において最も社会に影響を与えたイデオロギーであるにも関わらず、今現在最も存在感の薄い曖昧なイデオロギーに堕してしまった最大の理由である。自由とは何であるか、という不毛な議論に明け暮れ、そこで提出された様々な定義のどれかに固執する形で、自由主義者は分裂し、結局何が自由なのか誰にも分からないまま、自由主義自体が文明から没落していった。今、社会を進歩させる原動力としての自由と、その自由を至上の価値として保持する自由主義復権させるためには、これまでのこの議論に終止符を打ち、改めて自由という概念が、理想ではなく理念であることを、再確認しなければならない。

 ここで改めて、「強い現実主義」の基本テーゼに立ち返って、考え直す必要がある。


「常に疑いを持ち警戒せよ。しかしそこに立ち止まらず、前に進み続けることを試みよ」。


 我々は、全知全能でもなければ、聖人君子でもない。我々が保持する情報は、いつも不完全であり不確かであり、偏見によって曇らされており、しかも我々の心持ちも常に利己心と虚栄心に満ちており、その傲慢さを抑えるところを知らない。そのような人間で我々が社会を何らかの設計に基づいて合理的に改良することなどできないし、またそのために権力を独占するなど危険極まりないのである。従って、社会全体に抑制と均衡のバランスを作り出し、個々人の利己的な意図による相互協力によってその社会の自己組織的な進歩を作り出すための必要条件として、自由という理念は要請されるのである。すなわち、「強い現実主義」は、理念として自由という概念を要請する。従って真の意味での「強い現実主義」は自由主義なのである。そしてここで要請される理念こそ、まさに真の意味での自由なのである。

 つまり自由とは、社会をより良いものへと進歩させる原動力として、我々一人一人が原理的に保持するものであり、健全な懐疑精神に基づいて、多様な価値と考え方を有する個々人の相互協力によって漸進的に進歩する社会に必要不可欠な理念である。従って、「強い現実主義」としての自由主義こそ、真の意味での自由主義であり、その自由主義の中心概念としてこそ、自由という概念は真の意味での自由なのである。それこそが、理念としての自由である。従って自由主義者は、社会変革の真っ只中で、自由とは何かを常に模索し続けねばならない。そして、その不断の努力においてこそ、自由は、その意義を光輝かせる。自由を求める努力それ自体がまさに自由の所産なのである。

 これこそが「『強い現実主義』としての自由主義」論の核心である。

 

 

     *** *** ***

 

 

 何度も繰り返した述べた通り、自由主義において、自由は理想ではなく理念である。従って、自由主義者は何らかの理想に向かって邁進するのではなく、この自由という理念がより深く浸透するように、社会のルールを改良していくことを試みる。つまり、自由主義者は、基本的には「立法」という手段を用いて社会変革を試みる。これが自由主義が歴史的には、法・立法そして立憲主義といった概念と切っても切れない関係にある理由である。

 ところで、自由主義に基づく「立法」は次の三つの存在を対象とする。

 まず第一に個人である。法の下に平等な存在としての個人概念が実在的な意義を有し、その上で個人が皆平等に自由を行使しうる権利を持たなければ、自由という概念は意義を持たないからである。

 しかし、それだけでは不十分である。そもそもの話、自由主義社会は自給自足の独立自営農民の寄せ集めではなく、専門性を有する個々人の力を集結した分業体制である。個々人の利己的な意図に基づく相互協力があってこそ、自由はその効力を発揮する。そこで、第二の概念、企業が重要となる。

 更に、これら二つの概念を支える基盤としての法に、実際的な効力を与えるために、第三の概念、政府が必要となる。しかし、政府が効力を保持する以上、より直接的に言えば、ある種の暴力装置である以上、これを抑制するためにもまた法による統治システムが必要なのである。

 以上、法の適用対象となる三つの代表的存在をざっと紹介したが、自由主義の内実は、まさにこの三つの存在、個人・企業・政府に対して、いかなる原理・原則が要求されねばならないのかを説明するものとなる。従って、個人・企業・政府はそういう意味で、自由主義の三つの基本概念となる。自由主義の内実は、この個人・企業・政府という三つの基本概念の在り方と相互の関係性を巡って、議論されるものなのである。

安倍晋三元首相襲撃事件について

 先週の金曜日、安倍晋三氏が暗殺された。

 衝撃以外の何者でもなかった。事件直後は一体何故こんなことになったのだろうと考えた。

 私の中で、犯人像のイメージには二つの仮説があった。一つは、最近よく電車で暴れているタイプのいわゆる「無敵の人」、つまり無差別な、しかし話題性を狙った愉快犯。もう一つは、元自衛隊ということからして、三島由紀夫北一輝の思想的洗礼を受けた極右的政治犯。どちらにせよ、大変なことになったと思った。

 その後、さらに私が危惧していたことが引き続いて起こった。有名な現代芸術家がSNSで、あろうことか今まで安倍政権に批判的だった人々のこれまでの言論を責め始めたのだ。

 今にして思えば、この時点でもう歯止めが効かなくなっていたように思う。

 言論人としてはあるまじき発言だと思った。もしも因果関係として、安倍政権に批判的な人達による誹謗中傷が今回の事件の遠因だとしても、容疑者に殺害の責任があることは変わらない。そもそも因果関係から責任の所在を考えるのは無理がある。存在の論理と当為の論理は違う。因果関係に従えば、自由意志というものはフィクションで、全ての殺人においてその原因は犯人の周りの環境に帰することになるだろう。原因と責任は混同してはいけない。たとえ自由意志がフィクションだとしても、基本的には犯罪の責任は犯罪を行った主体にある。だから、誹謗中傷が今回の事件の遠因だったとしても、殺人は殺人を行った本人に責任があり、誹謗中傷を行った人達はその誹謗中傷において責任があるのだ。殺人に繋がるから誹謗中傷は悪なのではない。殺人は殺人として悪であり、誹謗中傷は誹謗中傷として悪なのだ。これが近代社会の基本的な論理ではなかろうか。最近の自称知識人とやらは、こんなことも分からないでどうしたものかと思った。丸山眞男がかつて述べたような「前近代と超近代の融合」がそこにあるように感じた。

 

 とにかく因果関係で結びつけてはならない。それは必ず感情論に堕する。そして必ず、何らかの属性を有する人達への攻撃に繋がる。それでは私達は今回の凶悪な事件を克服したとは言えないと思う。

 

 某ネット掲示板の創設者は、彼自身が作り出した言葉「無敵の人」の概念でもって、今回の事件を捉えていた。私の最初の仮説にも当て嵌まっており、かなりの共感をもって彼の話を聞くことが出来たが、今回の犯人がどの程度この概念に妥当するかは検討の余地がある。今までの「無敵の人」達に比べれば、遥かに知的で計画的な犯行だからだ。とにかく、彼は某芸術家のような安易な発言はしなかった。この犯行の遠因を社会全体に求め、我々全員の問題として捉えようとしていた。私も、この路線が、疑問の余地はあるものの、一番適切だと思っていた。

 

 しかし、参議院選挙の日に、再びまずいことが起きた。某ネット動画配信サイトの参議院選挙特番で、社民党の福島氏が自民党と某宗教団体の問題を取り上げたのだ。それ自体は悪くない。殺人は殺人として裁き、政教分離の問題もそういう問題として対処していけばいいのだ。今回の事件で、自民党と某宗教団体の関係が深いことが明らかになった以上、政治においてこの問題に向き合わねばならないのは当然だろう。私自身、福島氏の発言も当然と思った。

 問題はその直後である。福島氏との対話が終わった後、某言論人が急に顔を真っ赤にして、福島氏を非難し始めたのだ。彼女が、テロを正当化していると言い始め、周りの参加者もしきりにそれに同調した。

 実は、私もこの言い分は分からなくもない。何度でも繰り返すが、殺人の主体に殺人の責任がある。誹謗中傷だろうが宗教団体だろうが、それらの遠因に殺人の責任を帰してはいけない。それが特定の人々の攻撃に繋がりかねないからだ。しかし、某自称哲学者は福島氏との対話の前に、「誹謗中傷に殺人の責任を帰すのは左翼の人が言うように無理があるとしても、感情論としてそういう論理を支持する人達が沢山いるのは当然で、今回はそういう点で左翼は負けた」という趣旨の発言をしていた。後で、この某自称哲学者の福島氏との対話直後の発言は、宗教団体を擁護しうるものとして、散々ネットで叩かれるが、感情論で負けたのは左翼ではなく彼の方なのではなかろうか。

 

 まず初めに、誹謗中傷が悪いということで左翼が叩かれた。次に某宗教団体との癒着が悪いということで、右翼が叩かれた。今は犯人が反安倍政権的団体に所属していたとかいないとかで、再び左翼に反撃がなされようとしている。

 

 民主主義を脅かすテロ事件は、今や敵対勢力を叩きのめすための道具に成り下がってしまった。きっかけを作ったのは某現代芸術家や某自称哲学者達だが、この応酬がいつまで続くか。

 

 もちろん、それはそれとして、宗教団体と政治の繋がりも明るみになって欲しいとは思う。

 

 ところで、この事件、まさに犯人が思い描いたように事態が展開してはいないか。私は、この犯人の知性と行動力に恐怖を禁じ得ないと共に、この事件がテロの成功体験として、現代社会に潜伏する多くの「無敵の人」達を扇動しはしないか、不安である。

 

 私は、今回の事件の犯人は、まさに類い稀な知性と行動力を持った「無敵の人」だったと思う。彼は宗教団体に恨みを持っていただけではないだろう。この宗教団体のイベントに、この国の最高権力者がビデオレターを寄せていた事実を目の当たりにして、恐らくはこの社会自体に絶望したのではないだろうか。そして彼は、恨みのある宗教団体のトップではなく、それと繋がりのある政治家を殺すことで、社会に対する無差別な復讐意識を、政治テロと結びつけてしまったのだ。彼は正真正銘、パンドラの匣を開けてしまった。

 結果、彼が目論んだ通り、某宗教団体に脚光が当たったのだ。

 それだけではない。今のメディアや政府の対応は非常にまずい。この事件の遠因となる宗教と政治の問題を、隠蔽もしくは回避しようとする意志が見え隠れするほど、彼が首相のビデオレターを見て感じたであろう絶望感、あるいは社会に対する無差別な復讐意識が、世の中に広く伝播していくのではないか。しかし勿論、まともに対処してしまってはこのテロルに成功のお墨付きを与えるも同然である。

 

 つまり、どう転んでも、このテロルは成功としか言いようがない。宗教と政治の問題を避ければ、第二、第三のテロを生む遠因となるし、これに向き合えば、彼の主張を世間が受け入れたも同然である。

 

 とはいえベターなのは後者の方だろう。彼の裁判には若干の情状酌量の余地を与え、宗教団体には今後政治との関係を絶ってもらい、テロ対策の警備は強化する。勿論、殺人の責任はきっちり取って貰い、反省を促す。こんなところだろうか。五一五事件のような形での対処が、二二六事件のような別のテロルに繋がらなければ良いが。

 感情論の応酬といい、犯人の目論み通りの世論の動きといい、心配なことだらけである。戦前のような、更なるテロルの頻発と警察権力の拡大の負のループに陥らないことを願うのみである。

 

強い現実主義 (2)

 ここで今一度議論を整理したい。

 「強い現実主義」とは、どういう点で「強い」のか、またどういう意味で「現実主義」なのか。

 まず私がこの議論で設定した、イデオロギーの「強さ」について説明する。この「強さ」とは、つまるところイデオロギーの、現実の変革に対する影響力の強さを指す。すなわちそのイデオロギーでもって、具体的な政治行動あるいは政策提案に直結しうるか否かが、強さを測る指標となる。また、それらの政治行動あるいは政策提案は、実行可能で現実の変革に対して有効であればあるほど、そのイデオロギーは強いと言える。従って、ここで言うイデオロギーの「強さ」とは、そのイデオロギーが抽象的、観念的な議論の枠で収まらず、どのくらい具体的な政治状況や政策立案と結びつきを保持しうるのかの指標、つまり、その結びつきの強さを指しているのである。

 従って、「弱い」イデオロギーの持ち主は、政策の指標となるはずのイデオロギーを持っているはずなのに、政策の判断に全然そのイデオロギーが役に立たないという事態にしばしば陥ってしまう。理想が空想で終わってしまい、現実の政治と弱い結びつきしか持たないからである。一方で「強い」イデオロギーは、現代社会の状況でいかなる政治行動を取るべきか、の指針となるので、それは容易に様々な政策に対して良し悪しを判断する助けとなる。

 では「現実主義」とはどういう意味での「現実主義」なのだろうか。この言葉は確かにいくつかの意味を含んでいるが、この議論ではまず第一に、「主知主義」と「懐疑主義」という対義語の組の、後者の方が意味しているところのものを指す。すなわち、「理想主義」のイデオロギーが「完璧な社会の設計が、理性でもって可能である」という前提に立つイデオロギーのことであるとすれば、「現実主義」のイデオロギーはその逆を意味する。つまり、「現実主義」のイデオロギーは、完璧な社会の構築など誰にも出来ないと考える。歴史的にもそういった試みは常に失敗してきたし、社会は複雑で一人の能力では把握し切れるものではない。そもそも理想の土台となる価値や考え方自体、社会の発展と共に変化していく。従って「現実主義」のイデオロギーは、「理想」というものを何か具体的に実現できるものとして考えない。そもそも「理想」自体が社会と共に変わっていくのである。この点において、自由主義保守主義はまさに「現実主義」なのであり、「理想主義」の社会主義全体主義に対して、しばしば共同戦線を張ることがあった。ここでの「現実主義」は、まず第一に、誰にも「理想」の社会など作ることが出来ないという考え方のことを指す。

 また第二に、その理想の実現という建前のもとに権力を独占する者は、まず間違いなく腐敗するという考え方も、「現実主義」である言える。第二の意味での「現実主義」は、すなわち「権力者は常に腐敗し暴走する可能性がある」とする考え方のことである。

 これで、多少は「強い現実主義」の輪郭がはっきりしてきたと思う。「強い現実主義」を一言で説明するならば、それは次のようなモットーに要約できる。

 

「常に疑いを持ち警戒せよ。しかしそこに立ち止まらず、前に進み続けることを試みよ」。

 

 「強い現実主義」は、政治家にとっては実際に政策を提案する際の、有権者にとっては政策を評価する際の基準となり、現実の変革に多大な影響を与える。また、それは何か特定の理想を目指して邁進するものではなく、そういった理想に向かう急進的かつ強権的な改革に「致命的な思い上がり」として反対する。

 しかし、これは一見矛盾しているように思うかもしれない。「強い現実主義」は、理想を目指さないのに、何故現実を変革しうる力を持つと言えるのか。

 理由は単純である。強い現実主義は「理想」ではなく「より良い」社会を目指すからだ。これは屁理屈でも単なる言葉遊びでもない。強い現実主義は、誰かが決めた「理想」が正しいかどうかは誰にも分からないと考える。しかし一人一人の社会変革の努力が総合的に「より良い」社会を形成していくと考えるのだ。つまり、ある一つの同じ考えを持つ人達が理想の社会を作るのではなく、様々な価値や考え方を有する多様な人達のそれぞれの努力と協力の総合として、より良い社会が作られていくのだ。

 我々には、社会を構成する我々全員が、つまり価値観も考え方も環境も異なる我々全員が、満足できる理想を知ることなどできない。しかし、それら多様な人達の多様な努力と挑戦が、社会をより良いものに変えていくと考えることは出来る。

 社会も人間も無機質な機械ではない。それらは全て自己形成を織りなす有機体であって、決して何らかの設計によって構築されるものではない。だから、ある一つの価値観、考え、理想に基づいて社会を改良しようと試みるのは誤りである。社会は多種多様な人達によって構成される多中心的な有機体であり、そこで起きる様々な挑戦と失敗が、総合的にかつ自発的に社会それ自体を発展させていくのだ。

 これが「強い現実主義」の考え方である。「強い現実主義」は、一つの理想によって社会が改良されるとは考えず、また何もせず現状に満足するだけで良いとも考えない。様々な価値と考え方を有する人間達の努力の総合として、「理想」ではく「より良い」社会が、漸次実現されていくのである。

 

 従って、真の意味での「強い現実主義」こそ、自由主義なのである。自由主義は、「強い現実主義」として、人々が自己の自由を最大限行使しうることこそが、社会発展の最重要要素であるとする。つまり「強い現実主義」としての自由主義は、個々人が自由を行使することによって、「より良い」社会が形成されていくものと考える、そういうイデオロギーなのである。自由主義は、何か一つの独善的な理想によって社会を改良できると考えない点において「現実主義」であり、個々人の自由の行使によって、開かれた社会それ自体が絶えず改善されていく状況を促す点において「強い」イデオロギーなのである。

 当然、人々の行使する自由によって社会の変革に貢献しうる成果はごく些細なものでしかない。数多くの人々の、数限りない挑戦の内、成功に至る事業はほんの僅かなものである。しかし、だからこそ自由は社会の進歩を支える最も重要な要素である。変革は少数の人達によって成し遂げられるが、誰がその人であるかは、その変革が起きる前には誰にも分からない。故に誰にでも自由は保障されていなければならない。

 それだけではない。社会がこれから先、進歩していくであろうという見通しの下、それに労働を通じて参画し働いていくことは、多くの人々に充実感と快活さを与えうる。例え、多くの挑戦が失敗に帰したとしても、進歩し続ける社会においては、次こそ成功に至るかもしれないという期待が持てる。そもそも挑戦のみならず、数多くの失敗もまた社会の進歩に貢献する。従って、研究開発の自由、経営企画の自由、投資の自由、表現言論の自由、等々が社会を進歩させる原動力となる。人々は、これらの自由、まとめて言えば、外的な障害や規制が無いという意味での自由を通じて、社会の進歩に貢献し、自己の幸福を増大させていくことが出来るのだ。

 これらの活動を自由によってではなく、ある一部のグループのみによって独占的に計画され管理される社会では、このような社会の進歩は望めない。自由のない社会は停滞する。そこには管理された計画があり、挑戦を妨害する数々の規制と同調圧力がある。そのように進歩しない社会は、現状維持を試みて時代変化に適応していくことを怠り、衰退へと転がり落ちる。衰退していく社会では、人々はリスクを取って挑戦することよりも、今ある資源を守り抜くことに力を入れ、限りある富を巡って、熾烈で非生産的な椅子取りゲームに血眼になる。転落の恐怖によって他者を転落させ、自己の保身を図るか、あるいはその社会から逃亡することを図る。衰退する社会における抑圧は増大し続け、将来への期待は減少し続ける。衰退し続ける社会では、将来増大していくであろう困難に、耐え続けることは難しい。

 これは、進歩し続ける社会において、多くの人々が将来改善されるであろう困難を耐え忍び、その改善に向けて努力していくことが出来るのとは対照的である。従って、社会が進歩し、生活が改善されるという期待が持てる社会こそ、実際に進歩する。そして、それは自由を行使する様々な人々の挑戦によってこそ促進されるものである。これこそが自由の意義であり、力なのである。

強い現実主義 (1)

 現在、日本政治の停滞は火を見るより明らかである。人口減少や物価上昇、安全保障などの側面で様々な困難を抱えているにも関わらず、その解決には未だ多くの障害が付き纏い、有効な政策の実施は行われていない。

 政治の転換が必要である。

 政治の転換の鍵をにぎるのは、何よりも選挙における国民の投票である。しかし、投票率も先進諸国の中では異様に低い。しかも、将来この国が直面するであろう数多くの国難に、直接的に影響を受けるところの若者において、この投票率は最も低いのである。これこそ我が国最大の根本的危機である。

 では、なぜ若者の投票率は低いのか。

 理由は極めてシンプルだと思う。すなわち、どこに投票すればいいのか分からないからだ。

 我々はいかにして自信の投票先を決定すれば良いのだろうか。複雑な政治的諸問題に対して様々な意見が飛び交う中、それらの専門家ではない一般の国民は、時間も情報も限られた中で、いかなる投票行動を最善とするのか、判断しなければならない。しかし、これこそが投票行動において最も難しい作業であり、日本において投票率が極めて低い、その根本原因である。

 日本は民主主義の国である。しかし、その大本の国民が、特に若者が、どう投票すればいいのか分からないのだ。これこそが政治の転換に立ち塞がる、最大の障害なのだ。

 投票の基準となるものでまず一般に考えられるのは、何よりもまず政治家あるいは政党の掲げる政策であろう。これらの政策が選挙で勝利した後に本当に実行されるかどうかという問題もあるが、それはさておき、まずはどの政策が良いもので、あるいは悪いものであるかを判断しなければならない。しかし、多くの有権者は、既にこの時点でかなりの困難を感じるのではないだろうか。政策の良し悪しを適切に評価するには、それなりにその政策に関わる専門知識や情報を集めなければならない。また、政策の分析と検討による投票行動の判断がある程度の有効性を持つとしても、それにかかる労力や不確実性を考慮するならば、やはり政策のみで投票先を決めるというのはハードルが高い。

 我々はある程度は政策を検討しながら政治を考える必要があるが、一方で、投票行動の指針となる何らかの政治信条を土台として、政治を考えていかねばならない。また、そういう判断基準となる信条を持ち合わせていることが政策の検討の助けにもなる。

 ではいかなる政治信条、すなわち政治的イデオロギーを保持するべきか。

 その答えは当然、各々のイデオロギーを有する人によって異なる。従ってイデオロギーを持たない人間に特定のイデオロギーを強要する形で、議論を行うわけにはいかない。それは価値観の押し付けであろう。しかし、だからといって、イデオロギーの議論が全く不可能という訳でもない。イデオロギーを押し付けることは出来ないにしても、議論に参加する人間が、自身の持つイデオロギーを何故信じているのかを説明する形で議論をすることは可能である。つまり、自分が持つイデオロギーを何故自分は良いと思うのか、という形でそのイデオロギーの議論は出来る。

 私はこの形でもって、私が持つイデオロギーの議論を行いたいと思う。

 私は、いかなる政治的イデオロギーを保持しているか。私は、自由主義、いわゆるリベラリズムと呼ばれるイデオロギーを保持している。私は自由主義者である。

 しかし、自由主義者の場合、このイデオロギーの議論には更にもう一つの困難が付き纏う。

 すなわち、自由主義とは何か。多くの政治的立場の異なる人々が皆自由を価値として信奉し、また数多くの自由主義者を自認している人々の間で様々な意見の対立が見られる中、本当の意味での自由主義とは何であるのか。それは本当に政治行動の判断に資するような政治信条であるのか、議論しなければならない。

 自由主義とは何か。後述する説明の枠組みに則って言えば、真の意味での自由主義は、「強い現実主義」である。また、真の意味での「強い現実主義」こそが自由主義なのである。これこそが私がこの拙文で主張したいことの全てである。私は自由主義を「強い現実主義」として信奉しており、またその理由もこの「強い現実主義」の説明で明らかになると思う。

 

 

 

 「強い現実主義」とは何か。それは政治的イデオロギーの種類の一つのことである。そこでまず、この議論の前提となる政治的イデオロギーの分類法を提示したい。

 政治的イデオロギーには、自由主義を始めとして、共産主義保守主義全体主義新自由主義などの様々なイデオロギーがある。これらの政治的イデオロギーは、その形態によって、以下の四つに分類できる。

 第一に、「強い理想主義」がある。絶対的な理想を掲げ、それに向かって強力かつ急進的な政治行動を実行していくイデオロギーがそれである。主流の共産主義全体主義などがこれに属する。しかし、この形態のイデオロギーは異なる価値観や属性の持ち主を抑圧し、非民主的な形で現実に即していない政策を実行し、社会を混乱に陥れてしまう弊害がある。

 「強い理想主義」をイデオロギーとして有する政治結社は、優秀なリーダーによって率いられている場合、恐るべき実行力を発揮する。レーニンムッソリーニ毛沢東などがその典型例で、彼らは自らの理想を実現する為、その類稀な知性と忍耐力、カリスマ性でもって戦略的に行動し、時には現実的妥協を引き受けながらも政治権力の獲得に邁進する。彼らの天才は、本来実現不可能であるはずの理想を、その強い実行力でもって、多くの人間に実現可能であるかのように錯覚させてしまう点にある。「強い理想主義」に魅せられた人々は、こういったカリスマ的リーダーを崇拝し、理想から逆算して現実に何を為すべきかを論理的に計画立て、実行に移す。イデオロギーが現実の変革に直接的に影響を与える点において、本流の共産主義全体主義は「強い理想主義」に分類される。

 第二に「弱い現実主義」がある。保守主義がこれである。共産主義全体主義などの強権的なやり方を忌み嫌い、改革や革命を嫌悪し、現状維持を好み、社会の矛盾や問題に対して受動的な態度を取って我慢する、そういうイデオロギーである。しかし社会における現状維持の志向は、社会の衰退に帰結する。現代日本の社会状況がまさにこの具体例であろう。問題をただひたすら先延ばしにすることで、状況を更に悪化させ、ただ絶望して苦難を我慢するだけのイデオロギーに、一体どんな意義があるだろうか。彼らのイデオロギーは現実の変革には全くといって言いほど影響を与えないため「弱い現実主義」に分類される。

 第三に「弱い理想主義」がある。社会民主主義的な傾向のある政治的イデオロギーがこれに属する。平和主義、平等主義的な政治、政策を志向しており、理想論に終始しているきらいがある。強権的な政治行動を嫌い、比較的穏健な政治行動を志向する点では「弱い現実主義」と共通している。しかし、旧来の価値観よりも先進的な価値観を優先し、その普及と発展を理想として掲げている点においては進歩的と言える。だが彼らは「強い理想主義」とは異なり、ただ理想を掲げるだけで満足する。すなわち、理想を掲げることそれ自体が良識と理性を有する市民の説得に繋がると思い、旧態依然として変化しない社会と前時代的な価値に囚われた民衆を侮蔑する。現代においては、SNSにおける「いいね」の数を集めることで社会貢献をした気分になり、自己満足に浸り、自身の価値観に賛同しない人間をバッシングすることに明け暮れる、自称リベラルの大多数がここに属している。彼らの決定的な特徴は、ただ社会や他者を批判し侮蔑するだけで、自身は何もしない、あるいは「いいね」の数で何かした気になっている、という点にある。理想主義であるにも関わらず、その理想の実現の為の、効果的な政治行動を伴わない為、こういった政治信条は「弱い理想主義」に分類される。

 これら三つのイデオロギー「強い理想主義」「弱い現実主義」「弱い理想主義」にはある共通した特徴がある。すなわちこれらのイデオロギーは、所詮イデオロギーのためのイデオロギーであって、我々市民の生活を向上し文明の発展に資するようなイデオロギーではない、ということである。これらのイデオロギーは異なる価値や信条を侮蔑し排除することで自分達の安全圏に引き篭もり、独断的な政治判断でもって他者の意見を批判する。残念ながら、彼らは内輪で自己満足に浸り、他者を見下し排除することで分断を深刻化させるだけであり、社会の発展を阻害しているに過ぎない。

 イデオロギーのためのイデオロギーではない、社会の成員全員の幸福と文明の進歩に、真の意味で貢献しうるイデオロギーは、これら三つの形態には属さない。

 残る一つのイデオロギー形態、これこそが「強い現実主義」である。そして本来の意味での自由主義は、まさにここに分類される。「強い現実主義」は「弱い現実主義」とは異なり現状維持に満足しない。不断の進歩と改革を志向し、その為に効果的な政治政策を提案する。しかし「強い理想主義」のように強権的な方法で、現実に即しない形での政策の実行にも反対する。「強い現実主義」は、まさに現実と真摯に向き合い、より良い社会の実現に向けて現状の改革を目指す。完璧な社会ではなく、あくまでも「より良い」社会を目指す為、それは多くの市民の意志と現状を反映した漸進的な改革に直結する。市民の幸福と社会の発展のために、今どのような問題を解決する必要があるのか、またいかにして解決するべきなのかを現実に即して考察し、その実行を強力かつ迅速に行うことを志向する。

 「強い現実主義」ほど政治的に有効なイデオロギーは存在しない。それは対立する意見や権力、派閥の間でバランスを取り、巧みに政策を実行に移して社会を進歩させていくことに重点を置くため、「弱い現実主義」よりも強く、「強い理想主義」よりも現実的である。

 「強い現実主義」は現状維持の現実主義ではなく、改革と進歩の現実主義である。「強い現実主義」としての自由主義は、この現実に存在する市民の力と気概をもってして、社会の進歩を促す点にその最大の意義がある。

雑録20220111 眠い

 元々夜型の人間なので、連休が続くと昼夜が反転する。なので非常に眠い。何故に人間は、昼に働き夜に休むことを一般となすのか、分からない。私のような夜型の人間は数多くいるのではないか。不服である。何はともあれ、また普通の生活に戻らねばならない。仕方がないので今日は一睡もしないことにした。それで今とても眠いのである。

 眠い、ということは人間にとって不都合なことばかりだ。思考は不明瞭になるし、一つ一つの行動に意志力が必要となる。しかしそれは決して無価値なことではないと思う。眠いということ、それは眠りにつくことと起き上がることとの中間にあって、朧気で曖昧な世界に包まれた特別な時間である。

 眠いので、どこからどう書けばいいのか判然としないのだが、唐突に書けば、思想というのもまた眠たさに近いものを保持していなければならないと思う。...という考えが朧気ながら浮かんできた。第一、思想というものは他の学術の思考とも世俗の議論とも異なり、本来曖昧で明確な答えの無いものだ。人はその状態を嫌悪する。思想は、眠りにつくということに対する配慮か無ければならない。同時に、明快で精力的な、昼の行動と計画に対する疑念を抱かねばならない。人々が眠りに着こうとする時にこそ、それは耳元にやってきて煩く思考を掻き乱す。思想はそういうものではなかったか。

 大真面目に言って、眠くなる思想こそ価値のある思想なのかもしれない。朝、夢の内容を思い出そうと試みるように、思想は曖昧さと混乱の中から真理を見出だそうと試みる。そこで見出される真理は、他のどのような事実とも異なり、多分に様々な意味解釈を含んでいる。実際、本当に眠くなるまで考え続けた時か、一旦思考を諦めて眠りについた後の目覚めた直後が、良いアイデアは出やすい。価値のある思想は、そういうアイデアの集積で形成され、それに出くわした人々に眠気を感じさせてしまうようなものではないだろうか。