学生時代、一貫して生物学が大嫌いだった。理科自体、物理以外それほど好きでもなかったが、生物学だけは本当に、なるべく関わり合いたくなかった。それでも必修で授業を受けなければならないときは、ただひたすら苦痛を耐え忍んだ。
だから、高一の生物では単位も落とした。五回の定期テストでほぼ毎回赤点を取ったからだ。私の学校では五回の定期テストの平均点が赤点を超えれば単位が取得できる仕組みだった。私の場合、最後の定期テストでは70点以上を取れば生物の落単を回避できたので、歯を食いしばりかつてないほど生物を猛勉強したが、68点を取って無事落単した。救済措置として「教科書の写経」が課された。学生時代最大のトラウマである。
高校時代の私は、単に生物が苦手だったのみならず、生物学という学問自体に対し強烈な反抗心を抱いていた。直接的に言えば、私は生物で習う全ての事柄が根本から間違っていて、非科学的ですらあると思っていた。高校時代の私にとって、生物という科目は非科学的トリビアの雑駁な集積物、すなわちゴミであった。
学生時代、私がなぜこれほどまでに生物を嫌悪していたのか。今振り返ってみても、ここには学生の幼稚な反抗心以上の、科学の本質に関わる、かなり重要な問題が含まれていたと思う。当時の私は、生物学のいわゆる「目的論」的な説明を、どうしても生理的に受け付けられなかったのである。
例えば生物の授業で「ミトコンドリアは生物の呼吸のために〜」とか「微小管が細胞分裂のために〜」などの説明を受けると、そのたびに高校時代の私には「『〜のために』というのは、つまり最初からその目的のために生物や細胞が設計されたということなのか?だとすると一体誰が何のために?」という疑問が浮かばざるを得なかったのである。それで結局「神の創造を前提にした生物学はゴミ」という勝手な結論に至り、毎授業とも机に突っ伏して睡眠を取ることにしていた。落単必至である。
私は別に無神論者ではないし、神が世界を創造したという教説にも反発を感じているわけではない。だが、科学の領域において神の創造を持ち出してしまうと、科学的説明というものは最早何でもアリになってしまう。だから非人工物に対し「〜のために」という説明を聞くと、どうしても反発を感じないわけには行かないのである。そして高校生物の授業は一から十までほぼ全てその「〜のために」という型の説明がなされていたように記憶する。植物の光合成も、内分泌腺の働きも一体誰が何のために創り出したのか、そこには何の説明も無かった。
このような生物学に対する真剣な「憎悪」が、逆に生物・生命現象そのものに対する強い関心へと転化していったことは幸運であったに違いない。大学で物理を専攻し熱力学を学習した後には、生命現象が通常の物理学の枠内では説明がつかないことを痛烈に感じた。なにせ、光合成とか内分泌腺の働きなどは通常の平衡系では自然発生するはずもなく、しかもエントロピー増大の法則に従えば、事物はより無秩序な状態へと変化していくはずだからである。生命のような高度な自己維持システムは、明らかに不自然なのだ。
では生命現象は、いかなる物理的現象なのか?
学部三年の頃、私のこの疑問に対し、強烈な印象を残す回答を与えてくれたのが、非平衡熱力学の泰斗、イリヤ・プリゴジンだ。エネルギーの流出入に伴い、エントロピーも系の内外でやり取りできる場合は、熱力学第二法則に逆らうように、系の自己組織化が発生しうると彼は答えた。そしてそのような自己組織化によって形成された時空間パターンは、味噌汁の模様をはじめとして、身の回りに無数に存在する。自然界は実にそのほとんどが非平衡開放系なのだ。そして生命現象も間違いなく、非平衡開放系である。
それ以来、生物の仕組みがいくら精巧かつ頑丈に見えようとも、その構造はエネルギー流出入を伴う非平衡系においてのみ許される自己組織化現象の賜物である、というのが生物に対する私の基本見解となっていった。いまや世界は平衡と非平衡に二分され、後者には無限に未知の領域が広がっているように思われた。
そこからは必然の流れで、進化論や遺伝学、分子生物学など生命現象の本質に関わる学問に関心を広げていき、いつの間にやら部屋の本棚の三割くらいを生物関係の本が占めるに至っている。生命現象が自己組織化によるものとの考えは今も変わってはいないが、これほどまでに精巧で環境にロバストな系に発展している理由は結局よく分からない。分かったら世紀の大発見だろう。死ぬまでに誰か発見してくれればよいのだが。
そんなこんなで学生時代大嫌いだった生物が、今では唯一無二の親友である。読者の皆さんも、カリキュラムやら先生の目やらを気にせず、一人で疑問に思ったことを追求していけば、嫌いだったあの科目も好きになるかもしれない。社会人になってからの独学も悪くはないものだ。