現代の学校教育で「自然科学に苦手意識がある」「理科系科目がどうしても好きになれない」という気持ちを感じるのは珍しいことではない。理数科目の学習をしていると、硝酸ナトリウムやらトリプシンやら聞き慣れない謎の単語が連発する上に、mol(モル)やN(ニュートン)といった普段馴染みのない単位での計算が強いられる。そもそも細胞小器官の細かい説明や交流回路の問題が、何の役に立つのか分からなくてモチベーションが上がらない、という理由もあるだろう。中学、高校と学年が上がるにつれ、興味がなくなってしまう傾向も至極当然といえる。
これら理科教育の難点を克服し、自然科学全般に対するリテラシーと興味を底上げするためには、やはり科学を科学として、断片的にではなく体系的に教えるべきだと思う。大学の講義では、これは当たり前になされている。どの講義でも、教授陣はその説明のロジックを一番に気にしているはずだからだ*1。しかし中高の理科では、ぎゅうぎゅう詰めのカリキュラムの中で、忙しなくその知識の断片を与え続けている。一体何が目的で今この勉強をしているか、という説明が欠けているし、更にはそれらの知識が科学的になぜ妥当であるのかという説明もしていない場合が多い。中学や高校では、とりあえず教条的に原子論やらセントラルドグマを教えて、カリキュラムに間に合わせているパターンが多いのではないか。「よくは分からないけど、とりあえず無理矢理頭に叩き込む」という態度を学生が是としているなら、たとえ学生の理系離れが進まずとも、科学技術立国としての基盤は崩れかけていると言わざるを得ない。科学的知識の教条的押し付けが教育現場で行われているならば、これは科学そのものに対する社会的関心の低下を加速させてしまうだろう。
ではいかにして、科学を一から体系的に教えれば良いのだろうか。物理・化学・生物・地学の科目に理科を分ける前に、何をどのように教えることから始めるべきだろうか。
私が教師ならば、次の一言をもって科学の授業を開始したいと思う。それは、「人間は、自然が実現できること以上のことを実現することができない」ということである。そして、現代の科学文明も、先人たちが自然が自然現象として何をどのように実現しているかを観察し理解したことによる産物なのだ。
我々自身が、一体何ができて何ができないのかを知るためにも、自然に何ができるのかを知る必要がある。だからこそ、科学は万人にとって重要なのだ。それは自然を理解することによって、我々の限界を自覚していく営みである。それと同時に、我々が普段不可能だと捉えている偏見を解きほぐす営みでもある。
だから、科学というのは実は極めて真摯な哲学的営みの一種なのである。本質的には科学は哲学なのだ。自然という他者と向き合うことで、自己にとって当たり前だった世界の見方に絶えず反省を促し、それを更新していくこと。それが科学である。
そういうわけで科学の世界では極力、主観というものが排除される。常に自己を中心とした世界の見方に対して、より妥当な世界認識の在り方を、他の人たちの批判とともに追求していくのが科学という営みであるからだ。そしてその過程によって、我々の世界認識の在り方をアップデートしていくわけである。
我々の世界認識、ということは、それすなわち我々にとっての世界そのものに他ならないわけだから、つまるところ科学というのは、世界認識の修正であると同時に、世界そのものの再構築と言える。科学を学ぶということは、一から世界を再構築しなおすことに他ならない。そこに大きな驚きと魅惑が数多く存しているからこそ、科学は面白いのである。
世界認識を、世界そのものを大々的に再構築しなおしながら、常にその体系が以前のものに比べ、その細部に至るまで、この世界の種々の現象や存在を合理的に説明しうるように、それを更新していく作業こそが科学である。従って、科学は世界の、万物の、ありとあらゆる現象と存在を、可能な限り単純で合理的な論理体系から導きだそうとする。科学の研究対象は、世界の全てなのであり、世界の全てをできる限りコンパクトに体系化するのが、科学全体の最終的な目標と言えよう。
科学を学び始める学生には、この途方もない野心と、そしてこの野心をいかに実現していくか、またそれが実際のところ我々の生活にどれほど深い影響をもたらしているかということを、まず第一に知ってもらわなければならない。そして、焦らず、一歩ずつ、自然に対する知識を体系化し、そこに潜む様々な謎に自らの力でアプローチできるように、教え諭していくべきだろう。科学は忍耐を必要とする作業だが、そこで得られた知識自体は本来愉快で楽しいはずのものである。
*1:それで一部の学生は、高校でつまらなかった勉強が大学では面白くてつい調子に乗ってしまい、気づけば博士課程という悲劇?に見舞われる